待降節に寄せて |
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今年の待降節は (2024.12.10) |
むなしさとの闘い |
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十字架と殺し合いの歴史ーウクライナを思う (2023.4.1) |
四旬節と断食 |
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現代における断食の意味を探る (2020.3.7) |
宣教と神体験 |
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イエスが使徒を宣教に遣わされた意味を探る (2019.7.12) |
被造物の中に神の国が |
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「神の国」がここに来ていることの証拠は被造物の中にある (2019.2.1) |
ガンに遭うがよく候 |
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ガンを生きるとは (2018.6.2) |
身体と信仰 |
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道元禅とカトリック霊性・フランシスコの霊性との出会い(2) (2018.4.18) |
いま・ここに・ある |
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道元禅とカトリック霊性・フランシスコの霊性との出会い(1) (2018.1.15) |
祈りの道を行く |
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祈りの原点を求めて、熊野古道を歩く(2017.9.15) |
いのちの平和 |
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いのちといのちの連帯が争いを防ぐ(2017.8.1) |
農村を都会につなぐ |
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山村でINPUTしたものを大阪でOUTPUTする(2017.6.8) |
福島を訪れて |
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核開発のあまりに大きな犠牲(2017.5.1) |
石巻・女川を訪れる |
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人間の生と死とは (2015.8.1) |
いま思う 3.11 |
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ようやく3.11を語る心ができました (2015.4.7) |
聖書の中のムラ社会 |
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2千年前も今も変わらない |
自然災害・人間による災害 |
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ミャンマーと中国四川省の犠牲者を悼んで |
天は神の栄光を語り |
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天地万物は神を語っている |
万物は言によって成った |
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イエスは万物の創造主? |
農村宣教の歴史 |
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農村における宣教 |
自然災害の苦しみ |
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災害の悲しみをどこにぶつけたらいいの? |
被造物も待降節 |
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被造物はうめきをもって神の子たち出現を待っている |
たくわえる喜び |
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蓄えることの危険性と安心感 |
神の身近に生きる |
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神を身近に感じますか |
ぼくとつな農民の信仰 |
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ユダヤ教徒の農民の信仰 |
キリスト教の農村化 |
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日本文化を生きるキリスト教へ |
クリスマスは神の創造の賛歌 |
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生命の誕生は神の創造 |
土着化と根っこ |
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根を広く深く張らなければ土着しない |
被造物は兄弟? |
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「太陽の賛歌」に見る兄弟とは |
福音と宣教 |
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語る宣教から生きる宣教へ |
生命のきらめき |
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私たちの生きる目的は |
苦しみの神秘 |
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不条理な苦しみや不幸について |
荒野のイエス |
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イエスの原体験 |
教会の未来を農村に見る |
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教会活性化のヒントを農村に見る |
放蕩息子とふるさと |
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ふるさとの意味を考える |
テロ事件と宗教 |
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報復は非キリスト教的だ |
イエスの死と復活 |
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人生の意義、死の意味、死後の世界 |
食べるということ |
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食べることによって人間性を取り戻す |