宣教と神体験

2019.7.12


 
 イエスはご復活の後、御父のもとへお帰りになる直前、弟子たち、つまり教会に、根本的な使命をお与えになっっている。
 「全世界に行き、造られたすべてのものに福音を述べ伝えなさい」(マルコ16.15)
 福音を述べ伝えることを福音宣教と言っているが、その宣教によって教会は大きく発展してきたし、現代もその福音宣教の果たすべき使命はますます深く大きくなってきている。しかし、教会の歴史を振り返ってみると、いつも正しい宣教をしてきたわけではない。たとえば、宗教改革以降では植民地主義と相まって失地回復や勢力拡大に姿を変え、現代では福音宣教は一つの仕事や事業になってしまっている。
 宣教、宣教とよく口にするが、いったい、宣教とは何なのか。

 マタイ10章は、使徒を選び出し、彼らに悪霊を追い出す権能を与え、彼らを宣教に派遣する、という章になっている。この章を、聖書解釈としてではなく、イエスの弟子への思いとして、この章を読んでみたいと思う。
 この中でイエスは弟子たちを派遣するに当たって、いくつかの指示を与えている。
 1.イスラエルの失われた羊のもとに行くこと。
 2.「天の国は近づいた」と述べ伝えること。
 3.病人を癒やし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を清め、悪霊を追い出すこと。
 4.ただで与える。
 5.なにも身に帯びてはならない。
 6.ふさわしい人のもとにとどまる。
 7.平和を祈る。
 8.蛇のように賢く、鳩のように素直であれ。
 9.人を警戒せよ。
10.何をどう言おうかと心配するな。
11.人々を恐れるな。

と、ざーっとこれだけの指示というか、注意をお与えになっている。このうち6以降は、初代教会において派遣するときの方針のようなものが反映しているのではないかと思われる。ここで宣教論をくり広げることではなく、イエスが弟子たちの派遣に込めた「思い」を考察することにしたい。
 宣教には二つの面が考えられる。一つは神の国の福音を人々に伝えること、そして、もう一つは宣教が神体験の場であることである。ここでは宣教が、神体験の場であることを考えてみたい。

 神の御子が、神でありながら神であろうとせず、人間になられた。
 神の御子は、徹底的に本物の人間になった。たいした能力もない、平凡な、目立たない、表面的にはどこにでもいるような人間となられた。神のなさり方は中途半端ではなく、徹底している。神の御子は人間になったのである。
 そのイエスが、30歳になったとき、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになった。水がかけられた瞬間、天が開け、御父が聖霊を御子に送られた。それからのイエスは、常に三位一体としての人生となる。御父が聖霊を通して、いつも御子の中で働いておられるのである。イエスの語る言葉には力があり、悪霊を追い出し、病人を癒やし、死者をよみがえらし、大自然をも従わせる力を持ったイエスになっていく。
 弟子たちは、イエスの中で働く父を見て、イエスこそ「神の子・メシア」であることを信じていく。しかし、弟子たちは、イエスという目もくらむような存在を目の当たりにし、イエスにますます傾倒していくが、自分たちの中で御父が働いておられることには気がつかない。
 そこでイエスは、弟子たちに弟子たちの中でも神が働いておられることを体験させるために、親離れならぬイエス離れをさせ、人々に福音を告げるよう派遣するのである。弟子たちはイエスを離れて人々の中に入っていき、そこで自分の中で働いておられる神に気がついていくのである。

 イエスを派遣するに当たって、ある条件を提示される。それは、何も持たないで行くことである。
 「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れていってはならない。旅に際して、袋も二枚の下着も、履き物も杖も身に帯びてはならない。」(マタイ 10.9−10)

 なぜイエスは宣教に際して、何も持たないことにこだわったのだろうか。それは、宣教は金や物の力ではなく、神の力でするものだからである。金や物に頼っていると神が見えてこない。
 私というバケツの中に、自我、我というどす黒い水でいっぱいになっているなら、神はそのバケツの中に入ってこられない。神が中に入って働こうにも、私はそれを受け付けないのである。
 どうすればよいのか。バケツの中の水を、ザーッと捨ててしまえばよい。空っぽになったバケツの中に、神は自由に入ってこられ、思うようにその中で働かれる。

 ルカ 10.17以下では、宣教に遣わされた72人が喜んで帰ってきて、イエスに報告する箇所が描かれている。
 それを聞いたイエスは「聖霊によって喜びに溢れ、仰せになった。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。あなたは、これらのことを知恵ある者や賢い者に隠し、小さい者に現してくださいました。そうです。父よ、これはあなたの御心でした。』」(ルカ 10.17−21)
 イエスは弟子たちが宣教を通して神を体験したことを、何よりも喜ばれた。悪霊を追い出し、病気を癒やし、福音を述べ伝えることも大事であるが、それよりも、弟子たちが、御父の遣わした聖霊によって、御父の御心を果たしたことを心からお喜びになったのである。弟子たちはそこで神と出会ったのである。
 「(奇跡を行ったことよりも)むしろ、あなた方の名が、天に書き記されていることを喜びなさい」
「天に書き記されている」とは、御父の心に刻み込まれた、ということであり、神と弟子たちの間に深い出会いがあった、ということである。

 もう一度、宣教の生き生きとしたいのちを取り戻さなければならい。それは、宣教はただの任務、あるいは勢力拡大のための仕事ではなく、実に私たちと神との深い出会いの場であることを再確認する必要がある。それによって、宣教に命を吹き込んでいかなければならない。宣教は、私たちと聖霊との共同作業なのである。