いのちの平和

これは17年8月1日づけの大阪教区「カトリック時報」に
掲載されたものです。



 「与えられたいのちを十全に生きる」ため に、いのちに目を向けよう、と「いのちへの まなざし」で司教団は言います。感動的なこ とばですが、しかし、このいのちほどやっか いなものはありません。いのちは愛を生み、 愛を育てますが、また同時に、愛の対極にあ るエゴイズム(罪)をも生み出してしまうか らです。
 私たち人間を含めて動物は、このいのちを 守り、いのちを永らえさせるために、ほかの いのちを食べるしかありません。人類は漁業 や畜産農耕の技術を発達させて食物を手に入 れてきましたが、それでも食物を、またその ための土地を手に入れるために悲惨な闘いや 争いを繰り返し、今や、核兵器という究極の 兵器にまで至ってしまったのです。

 私はこの四月に大阪生野に赴任してきまし たが、それまでは二十年間、信州の山奥で、 米と野菜を無農薬・有機栽培で育ててきまし た。できるだけ自然に近いやり方で、可能な 限りいのちあるものを殺さない農業をしたか ったからです。
 無農薬・有機栽培は体力と手間暇がいる非 常にきつい農法ですが、その代わり、稲や野 菜と共に田んぼには今や絶滅危惧種とさえ言われる赤とんぼやミズスマシ、ヤゴ、どじょ う、それに食物連鎖の底辺をなす無数のオタ マジャクシ等が、畑にはバクテリアやミミズ がいて、それを狙っていろんな鳥や動物が集 まってきます。そこには、いのちが満ちあふ れる世界があります。

 小さく弱い生き物が生きていける世界は、 人間も安心して生きていける世界。
 なにもの もが自分のいのちを生きることができる世界、 それが平和な世界です。

 とはいえ、この二十年の農業体験をどのよ うに大阪の地で生かすことができるのか、私 にとって大きな課題です。それは私たちの信 仰から神の創造が排除され、キリストの救い を人間、しかもキリスト者だけのものとし、 神を小さな聖堂の中に閉じ込めているからで す。
 先日、山に入るために電車に乗ったところ、 大勢の高校生も乗っていました。彼らも宇宙 創造の前から神に愛され、神に創られ、神に 生かされ、彼らのために御子はいのちを捧げ られた。いま、この電車の中には神のいのち が満ち溢れている。このように思えるのは、 農業体験から来るからなのでしょうか。
 深いところで繋がっている生きとし生ける ものの連帯やいのちといのちの連帯が、人と 人の絆を破壊し、いのちを奪っていく残虐な 暴力に対抗できる大きな力だと信じています。

 「連帯は福音の別な呼び方である」