四旬節と断食

2020.3.7


  そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。
 イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。    (マタイ 9.14-15)


 このたとえで、花婿はイエスご自身を指しておられ、客である私たちは花婿とともに婚礼の宴会で食事を楽しむが、花婿であるイエスが逮捕され、十字架上で死を遂げられるときは断食しようという意味である。ここで、イエスと共に食事を楽しみ、イエスと共に断食するということについて、現代に生きる私たちにとってなにを意味するのかを考えてみたい。

イエスと共に食事を楽しむ
 すべて生(生命)あるものはみな、生きるためにエネルギーを必要とする。あるいは、熱力学第二法則のエントロピー増大の法則風にいうなら、死を遅らせるためにエンルギーが必要である。
 植物は自分の中で、つまり葉の葉緑素の中で太陽の光を燃料に空気と水から食物(でんぷん)を作ることができるが、動物は自分の中でエネルギーを作ることができないので、植物や動物を食べることによってエネルギーを補充する。
 私たちはこのように、ほかの生き物のいのちをいただいて、自分のいのちを生かしているのである。つまり、他のいのちに生かされているのである。
 ここで創造の原点に遡ってみることにしよう。
 「 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(ヨハネ1.1−3)   万物は言によって創られた。その言は人となって、イエスと名付けられた。イエスは創造の神であるとともに救いの神である。このような言い方は、創造論と救済論を分けて考えようという神学者や聖書学者にとって気に食わないだろうが、それこそ、ヨーロッパの悪しき二元論である。(このような考えこそがキリスト教の行き詰まりをもたらし、環境汚染や破壊をもたらした元凶である)
 
 キリスト共に宴会の食事を楽しもう、ということのまず第一に、私はキリストによって創られ、いのちを吹きこまれてこのように生きていて、キリストからいただいたいのちをキリスト共に喜び、いのちを支えるためにキリストともに会食を楽しむ。
 第二に、キリストが創造され、いのちを吹き込んでおられる植物や動物、水や空気、太陽の光など大地の恵みを、創造の神であるキリスト共に楽しむ。
 第三に、宇宙創造の前から愛し、存在を与え、いのちを吹き込み、永遠の救いのために神の子が人となり、十字架上で命を捧げ、今日もいのちを吹き込んで生かしておられる多くの人々の労働と支え、助けと協力により、食卓に上っている食事をキリスト共に楽しむ。
 これが花婿であるキリストと共に楽しむことである。神の国にふさわしい食事である。

キリストを奪い取る
 しかし、花婿であるキリストが奪い取られる日が来る。ここで間違ってはいけないのは、「奪い取られる」とおっしゃたのはキリストであって、弟子たちではない。私たち人間は奪い取られるという被害者ではなく、奪い取る方の加害者なのだ。
 まず、私からキリストを取り去ってしまう。キリストに創られ、キリストに生かされているなどと、子供だましのおとぎ話。神やキリストのいない世界。自由で好き放題できる。神の目なんか気にすることもない。しかし、生まれてきた意味、生きている意味を見失い、病気になったり死ぬことがとてつもなく恐ろしい。いのちの神を見失った人間は、自分のいのちをも見失っていく。
 宇宙が、この地球が、この大自然が神に創られたなんて、それこそ子供だましのおとぎ話。とこの世界からキリストを奪い取っていく。神のいない世界。好きなだけ大地から搾取し、環境を汚染し、自然を破壊し、地球をめちゃめちゃにしてしまう。大地は様々な金目のものを産み出すうちでの小槌。
 人間関係からキリストを取り去り、その代わりとして金銭や資本、利益を導入する。人間関係に必要なのは、それがどれだけ利益につながるかである。ある心理学者によると、人間関係の90%以上が利害関係だ、という。親子関係や夫婦関係も、多くは利害関係で結び合わさっているらしい。

断食をしよう 
 「花婿が奪い取られるときがくる、そのときは断食することになる」
 花婿であるキリストが奪い取られ、その結果として人間は自分を見失い、人間と被造物の関係が壊滅的になり、人間関係も、地球上の人間を30回も繰り返して殲滅するだけの兵器を有するまでになった。今こそ断食の時である。

 断食とは食を絶つことで、一日や二日ではなく、数週間も食を絶つのである。断食によって自分を生と死のギリギリの境まで追い込み、その生と死の境に立つことによって、自分が生きているのではなく、生かされていることに気づかされるのである。
 断食により体力も生命力も極限まで落ち、もうろうとした意識の中で、私はどうして今ここに存在しているのだろう、なぜこうやって生きているのだろう、と考える。そのとき、自分の存在のために、また、いのちのために何一つしていない。わたしは存在しているのではない、存在させられているのだ、生きているのではない、生かされているのだということに気づかされていく。
 またそのときに、大地の恵み、家畜や魚に生かされ、空気を吸い、水を飲み、太陽の光を浴びてこの大自然に生かされていることを悟る。
 そして、多くの人々の労働や努力、協力や支えによって生かされていることにも気づかされていく。

 イエスの荒野における40日の断食は、この生と死のギリギリの境目におけ自己との戦いであった。それは、いのちを根底から支える食べるということ、、孤独との闘い、そして、自己確認であった。(これについては「荒野のイエス」を参照)
 また生命をかけて断食を生ききった、それが自己中心から相手中心を生ききった十字架であった。生と死を突き抜けたのである。

キリストを取り戻す
 キリストを奪い取り去ることによって失ったものを、断食によって改めて取り戻していく、キリストを取り戻していくのである。断食にはこのような意味がある。しかし、現実的に生死の境にまで達するような断食は無理である。ではどのようにして、そのような状態に達することだできるのか。
 断食についてイザヤ預言書はこのように語る。


 
「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。
 悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。
 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。
 そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し、主の栄光があなたのしんがりを守る。
 あなたが呼べば主は答え、あなたが叫べば「わたしはここにいる」と言われる。」
(イザヤ 58.6-9)

 つまり、断食とはキリストを取り戻した状態、神と人々とこの大自然に自分を捧げていくこと、すなわち、神と人と被造物を愛していくことこそ断食なのである。
 「わたしはここにいる」 花婿であるキリスト共に、宴会の食事を楽しもう。