悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。
「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それは私に任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もし私を拝むなら、みんなあなたのものになる」
イエスはお答えになった。
「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」
1 世界のすべての国々
悪魔(試みるもの)はイエスに世界のすべての国々を見せた。今までの伝統的な解釈では、その国々とは、壮麗な神殿や宮殿、限りなく続く民家など繁栄している都市の姿を意味してきた。確かに、ヨーロッパの壮麗なゴシック建築や現代の高層ビルを目の当たりにし、その町に居住している人々にとっては、これこそ国の繁栄のシンボルであり権威の象徴である、と考えるにちがいない。
しかし、近世までそうであったように、国の繁栄のシンボルは農林業にあった。とくに、二千年前の荒れ地が広がるイスラエルでは、緑なす畑、限りなく広がる緑の牧場、緑が重なり合うオリーブ、オレンジ、オリーブの園、国家的プロジェクトには欠かせない材木を生み出す森林こそが豊かさそのものであった。国の豊かさはこの緑によって量られていたはずである。
現代、私たちは国の豊かさを緑ではなく、コンクリートや鉄の量で量るようになり、緑豊かな国は、文明の低い、遅れた国と見なすようになってしまった。無機質の血も涙もないものを豊かさのシンボルに祭り上げてしまったのだ。なんという愚かで、悲しいことか。
はからずも、昨年アメリカで起こった同時多発テロ事件は、現代文明のもろさと危うさを露呈することとなった。多くの人命が失われたがれきの山は、今なお飢餓と貧困に苦しむ多くの国が存在するというのに、一年間の世界中の軍事費が100兆円を超え、核実験を繰り返す愚かさを、悲しくも物語っている。
繁栄とはなにか、豊かさとはなにか。豊かさになれきってしまった私たちへの、大きな問いかけである。
2.悪魔は言った。「国々の一切の権力と繁栄は私に任されている」
実に巧妙な、人間の欲望をくすぐる言葉である。権力と繁栄に人間はいかに弱く、おぼれてしまうことか、最近のいろいろな出来事を見るまでもない。
ここでも悪魔はこの世界を自分の権力や繁栄のためとしか見ていなく、本来の人間と人間、人間とこの世界との深い関係を断ち切っている。そのような関係などどうでも良いのだ。彼にとってこの世界は、権力と繁栄の対象でしかないのだ。(まるで、どこかの国のよう)
「支配」ということばは旧・新約聖書では226回(新共同訳聖書で)出てくるが、その中で、次の箇所は大きな論議の的になっている。
「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう』」(創世記
1: 26)
「神は彼ら(人間)を祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」(創世記
1: 28)
キリスト者は長いこと、この聖書の「支配せよ」という言葉を根拠に、森を開き、畑を耕してきた。しかし、近世に於いてこの言葉はじょじょに権力と繁栄のために用いられるようになり、それとともに、植民地政策によりアジアやアフリカ、中南米で大規模なプランティーション(大規模農園)が行われ、それとともに多くの民族が奴隷状態におとしめられ、飽くことなき欲望のため自然破壊や環境汚染が壊滅的に広がってしまった。日本も例外ではない。
現代の危機的な状況を生みだしたのが、この「支配せよ」という聖書の言葉の誤った解釈であり、ヨーロッパ・キリスト教の選民意識であるという反省が心ある人たちから起きてきている。
3.「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」
人類は「支配せよ」を「権力と繁栄」と解釈してしまった。しかし、神の思いはどこにあるのだろう。イエスは「支配」を「権力と繁栄」という考えをきっぱりと拒絶した。「神を拝み、神に仕えよ」という言葉の意味は、神の思いを生きよ、ということである。
イエスは十字架によって権威や権力、支配の人間的な意味(価値観)をひっくり返し、神の思い(価値観)を生命をもって示してくれた。つまり、神の価値観は人間とは逆で、「権威や権力、支配」は「愛する」ことであり、「共に生きる」ことであり、「仕える」ことを意味する。「支配する」とは「仕えること」なのである。
福音(良い音信)とは、神の思い、神の願い、神の意志であり、それをイエスは自分の一生をかけて解き明かしていった。この意味であの創世記を読み返してみると、人間と自然界の関係が大きく変わって見えてくる。この自然界との共生、ともに愛し愛される(支え、支えられる)関係、人間もこの自然界と仕え合う関係が見えてくるではないか。
「神はとこしえに力強く支配し/御目は国々を見渡す」(詩篇 66: 7)
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