荒野のイエス

「改心して、福音を信じなさい」
(ルカ 4.1-11 : マタイ 4.1-11)

1.石とパン

 「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を”霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、なにも食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。
 そこで、悪魔はイエスに言った。
「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」
イエスは「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。


1.飢えの中の自分と大地
 イエスは荒れ野で40日間断食をし、激しい飢えの中で悪魔の試みを受けられた、と福音書は語っている。この荒れ野とは、塩度が極度に高い「死海」のほとりのクムランの近辺、緑がほとんどなく、岩と砂漠が広がる地ではないかと言われている。このあたりにはエッセネ派の隠遁所があり、隠遁者が断食をしていたイエスに水を運んでくれたのであろう。(灼熱の地で、水なしでは三日ももたない)
 イエスはこの40日間、昼間は灼熱の太陽に焼かれたひからびた大地に座り瞑想し、夜は狼の遠吠えが聞こえる冷え切った大地に身を横たえていた。イエスは断食により体力は衰え、過酷にまできびしい大地の上で、生死の境をさまよいながら自己の無力感や小ささや弱さに打ちひしがれていたことであろう。
 イエスは大地に横たわりながら、この大地と自分、つまり、神の創造と土から造られた我が身(「神は土(アダマ)の塵で人(アダム)を形作り」−創世記 2.7)を思っていいたことであろう。人間は自分一人で生きている、と思いあがっていても、食物を断たれ、水もなければ2・3日しか生きられない。土から造られ、土から生え出てくるものを食している人間とはいったい何者なのか。

2.弱さの中でこそ力は現れる。(コリント後書 12.9)
 弱った身を大地に横たえていると、目の前をいろんな虫や小動物が通り過ぎていく。必死に生きているアリのような虫もいれば、その虫を食べて生きている虫や小動物もいる。時には、目の前をサソリや毒蛇が横切っていったこともある。大が小を、強が弱を飲み込んでいく情け容赦のない世界。しかし、みな生きるために必死である。人間は、この目の前でくり広がれているこの虫や動物たちの世界とは何の関係もないのだろうか。
 私たちは毎日の生活の中で、自分の世界、あるいは人間の世界の中で生き、それほど人間以外の世界に目を向けてはいない。しかし、ふと本来の自分に戻るとき、この大きな大自然に包まれて生きていることを実感するときがある。とくに、仕事や生活上のいろいろなこと、地位や肩書き、自分の能力や才能、等から離れ、一個の素直な自分に戻ったときそれを感じる。
 自分が自分の無力さを感じるとき、自分に絶望する人もいるだろう。しかし、そのようなときこそ、自分を支えてくれる大きな力とこの大自然に気づくときでもある。無力さを感じるとき、それは神の恵みの時でもある。


3.人はパンだけで生きるのではない
 試みる者は「もしおまえが神の子ならば、この石にパンになるように命じたらどうだ」とさそいをかける。激しい飢えと衰弱からくる幻想、妄想で、丸い石がパンに見えることもあったであろう。この石がパンであったら、と思ったこともあろう。しょせん、人間は食わなければ生きていけないのである。生きるために食うのか、あるいは、食うために生きるのか、などという問いは食うに困らない人たちの言うこと。食うことと生きることは同じ、という人々が、世界人口の半数以上を占めているのが今の現状である。
 人間はつまるところ土ででき、土によって生かされているのである。
 イエスを試みる者は、石(自然界)をただの腹を満たすものとしか見ていなかった。だが、イエスはそれを自分を生かすもの、自分と深い関わりのあるものとしてみていた。人間を生きるものとして作られた神は、また、人間を生かす大地にも深い思いを抱いておられた。神の望み、願いが大地に込められている。だからこそイエスは「人はパンだけで生きるのではない」という聖書の言葉を引いて誘惑を退けていく。

4.互いに生かし、支え合う関係
 この自然界は私たちの腹を満たすためにだけあるのではない。もっと深いところで、互いに生かし生かされあっている存在である。その根拠はやはり聖書のあの天地創造にある。だから、マタイ福音書では続いて、「人は神の言葉で生きる」と言っている。神の言葉とは、神の意志、神の考え、神のお望みであり、創造の奥に秘められた人間とこの自然界との深い関わりをも含んでいる。
 人類はこの自然界から神を排除し、自然界をパン(人間の欲望)のためにだけ使いすぎた。その結果、人間と自然界の関係は崩れ、自然破壊、環境破壊を招いてしまった。この危機を乗り越えるためには、改めて本来のあるべき関係に立ち戻り、もう一度、その関係を修復していかなければならない。

 「人はパンだけで生きるのではない」



2.地の支配

 悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。
 「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それは私に任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もし私を拝むなら、みんなあなたのものになる」
 イエスはお答えになった。
 「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」



1 世界のすべての国々
 悪魔(試みるもの)はイエスに世界のすべての国々を見せた。今までの伝統的な解釈では、その国々とは、壮麗な神殿や宮殿、限りなく続く民家など繁栄している都市の姿を意味してきた。確かに、ヨーロッパの壮麗なゴシック建築や現代の高層ビルを目の当たりにし、その町に居住している人々にとっては、これこそ国の繁栄のシンボルであり権威の象徴である、と考えるにちがいない。
 しかし、近世までそうであったように、国の繁栄のシンボルは農林業にあった。とくに、二千年前の荒れ地が広がるイスラエルでは、緑なす畑、限りなく広がる緑の牧場、緑が重なり合うオリーブ、オレンジ、オリーブの園、国家的プロジェクトには欠かせない材木を生み出す森林こそが豊かさそのものであった。国の豊かさはこの緑によって量られていたはずである。
 現代、私たちは国の豊かさを緑ではなく、コンクリートや鉄の量で量るようになり、緑豊かな国は、文明の低い、遅れた国と見なすようになってしまった。無機質の血も涙もないものを豊かさのシンボルに祭り上げてしまったのだ。なんという愚かで、悲しいことか。
 はからずも、昨年アメリカで起こった同時多発テロ事件は、現代文明のもろさと危うさを露呈することとなった。多くの人命が失われたがれきの山は、今なお飢餓と貧困に苦しむ多くの国が存在するというのに、一年間の世界中の軍事費が100兆円を超え、核実験を繰り返す
愚かさを、悲しくも物語っている。
 繁栄とはなにか、豊かさとはなにか。豊かさになれきってしまった私たちへの、大きな問いかけである。

2.悪魔は言った。「国々の一切の権力と繁栄は私に任されている」
   実に巧妙な、人間の欲望をくすぐる言葉である。権力と繁栄に人間はいかに弱く、おぼれてしまうことか、最近のいろいろな出来事を見るまでもない。
 ここでも悪魔はこの世界を自分の権力や繁栄のためとしか見ていなく、本来の人間と人間、人間とこの世界との深い関係を断ち切っている。そのような関係などどうでも良いのだ。彼にとってこの世界は、権力と繁栄の対象でしかないのだ。(まるで、どこかの国のよう)

 「支配」ということばは旧・新約聖書では226回(新共同訳聖書で)出てくるが、その中で、次の箇所は大きな論議の的になっている。
  「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう』」(創世記 1: 26)
 「神は彼ら(人間)を祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」(創世記 1: 28)

 キリスト者は長いこと、この聖書の「支配せよ」という言葉を根拠に、森を開き、畑を耕してきた。しかし、近世に於いてこの言葉はじょじょに権力と繁栄のために用いられるようになり、それとともに、植民地政策によりアジアやアフリカ、中南米で大規模なプランティーション(大規模農園)が行われ、それとともに多くの民族が奴隷状態におとしめられ、飽くことなき欲望のため自然破壊や環境汚染が壊滅的に広がってしまった。日本も例外ではない。

 現代の危機的な状況を生みだしたのが、この「支配せよ」という聖書の言葉の誤った解釈であり、ヨーロッパ・キリスト教の選民意識であるという反省が心ある人たちから起きてきている。

3.「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」
 人類は「支配せよ」を「権力と繁栄」と解釈してしまった。しかし、神の思いはどこにあるのだろう。イエスは「支配」を「権力と繁栄」という考えをきっぱりと拒絶した。「神を拝み、神に仕えよ」という言葉の意味は、神の思いを生きよ、ということである。
 イエスは十字架によって権威や権力、支配の人間的な意味(価値観)をひっくり返し、神の思い(価値観)を生命をもって示してくれた。つまり、神の価値観は人間とは逆で、「権威や権力、支配」は「愛する」ことであり、「共に生きる」ことであり、「仕える」ことを意味する。「支配する」とは「仕えること」なのである。
 福音(良い音信)とは、神の思い、神の願い、神の意志であり、それをイエスは自分の一生をかけて解き明かしていった。この意味であの創世記を読み返してみると、人間と自然界の関係が大きく変わって見えてくる。この自然界との共生、ともに愛し愛される(支え、支えられる)関係、人間もこの自然界と仕え合う関係が見えてくるではないか。

「神はとこしえに力強く支配し/御目は国々を見渡す」(詩篇 66: 7)



3.奇跡の魔力

 悪魔はイエスをエルサレムにつれて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。
 「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。
 『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』
また、
 『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」
 イエスは、
 「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。


1 人間の劣等感
 人類はいろいろな道具や機械、ダイナマイトのような爆発物を使って自然を切り開き、耕し、道路やダムのような巨大なものまで構築してきた。自然を支配し、服従させることに一種の使命感まで持って、この自然を切り開いてきた。
 人間は本来、心の奥底に深い劣等感があった。鳥のように空を飛べない。魚のように遠くまで、そして、速く泳げない。ヒョウやライオンのように速く走れない。象のように重いものを持てない。等々。近世以前、これらのことは夢のまた夢。奇跡でも起きないかぎり不可能であった。しかし、人類は知恵を持ってさまざまな道具や機械を作り出し、この夢を現実のものにしてきた。人類は奇跡に頼らなくとも、この自然を征服できたのだ(と思っている)。
 しかし、私たちが素手で自然に立ち向かうとき、あるいは、地震、津波、噴火等の天災に出くわすとき、自分の小ささや弱さをいやというほど思い知らされることになる。

2 イエスの無力感と孤独感
 イエスが40日間、荒れ野で断食したときも、自然ばかりではなく自分の身にたいしてさえ何一つできないことを体験されたことであろう。断食で衰弱したからだには、この自然はあまりにも巨大すぎた。しかし、人間には人間としてのプライドがある。衰弱しきった身体で、人間のプライドを取り戻すには奇跡しかないのか。

 衰弱したイエスを襲った苦しみはただ無力感だけではなく、孤独という苦しみもあった。生死の限界ぎりぎりの自分を誰も助けてくれない、誰も慰めや励ましの声をかけてくれない、その孤独である。無力であればあるほどその孤独は身にしみる。
 誘惑者はイエスにその無力感と孤独感に対して、一挙にそれを吹き飛ばす妙案を提示してきた。大勢の人の前で奇跡を起こすことである。人間にとって不可能なことを行えば、大勢の人々から歓呼の声で迎えられることだろう。一躍、スターダム(主役)にかけ登ることになる。スポットライトを一身に受け、大観衆の大歓声と拍手に包まれる。考えただけでもたまらない魅力である。

 

3 イエスの人間への目覚め
 イエスはその奇跡を行うことを拒否した。自分の弱さも小ささも、心の奥底にある孤独感もすべてを受け入れたのである。人間であることに目覚め、人間であることの真実を受け入れたのである。この弱さこそ、この小ささこそ人間の真実である。自分の根底に潜む孤独感こそ、人間の真の姿である。
 自分は弱いからこそ、小さいからこそ、そして、孤独だからこそ、人々と、この大自然と共に歩んでいこう、と決心された。それからのイエスは、小さく弱い人々の友となり、自然界に対して優しい眼差しを向けていくことになる。

4 奇跡の代償
 私たち人類は奇跡と思えるほどのことをしてきた。鉄とコンクリートの巨大都市が建設され、そこに数百万、数千万人の人々が住み、交通網や通信網の飛躍的な発達で世界が一つに結ばれ、軍備拡大はつきるところを知らない。しかし、その結果として、人間関係や家庭の破壊、犯罪の増加、自然破壊や環境汚染という大きな代償を支払わなければならないところまで追いつめられてしまった。
 現代科学の発達は人類に多くの益をもたらした。しかし、また同時に多くの害毒ももたらしてしまった。奇跡の代償は大きいのである。そして、それ以上に、この世界にとてつもなく大きい貧富の差を生みだしてしまった。

5 共に生きる
 共に生きること(共生)はエコロジーの根本的な理念ではあるが、エコロジーにとらわれずとも、人間本来の生き方なのかもしれない。共生はまだまだ未知の世界である。奇跡ではなく、人間本来の姿に目覚め、多くの人とこの自然界と共に生きる道を見いだしていく、そのような人生でありたいと願っている。