テロ事件と宗教

(2001.10.6)

 9月11日にアメリカで起きた同時多発テロ事件は、6千人余という多くの犠牲者を出した悲惨で痛ましい出来事であった。目的のためになら多くの犠牲者もいとわず、手段を選ばないやりかたにいいようのない悲しみを感ぜずにはいられない。
 しかし、ワシントンの大聖堂で行われた犠牲者の追悼式で、ブッシュ大統領が説教壇から報復を叫んでいた場面をテレビで見たとき、キリスト教と報復というキリストの福音とは相反する場面に大きな衝撃を受けたのは私一人ではないだろう。
 報復、復讐、仇討ち、それは撃たれたら撃ち返すというアメリカの銃社会を如実に示しているが、仇討ちの精神風土の残る日本とてあまり変わらない。そのため、日本での死刑廃止はなかなか進展しない。先進国で死刑が残っているのはアメリカと日本である。

 私もそうであるが、多くの日本人や欧米の人々は今回の事件が起こるまではほとんどイスラム圏の人々に対して無関心でいたのはないだろうか。今回の事件を通して改めてイスラム教とは、中東とは何かを考え始めた人も多いことと思う。

 この事件は、まさに、キリスト教である欧米とユダヤ教のイスラエル、そしてイスラム教の中東の三つどもえの古くて長い歴史の中での出来事である。欧米にとって、東西冷戦が終わった今、政治的覇権はあまり意味を持たず、石油の利権と古代遺跡のことぐらいしか興味を引かなくなった。しかし、今回の事件には欧米やイスラエルの選民意識と19世紀・20世紀の植民地政策の傷跡が見え隠れしている。

 旧約聖書によると、イスラエル(ユダヤ)民族の始祖はアブラハムということになっている。アブラハムも妻のサラも高齢で子がなかったので、サラは下女をアブラハムに与えて子を産ませる。しかし、皮肉なことにその後でサラは子をもうけ、下女が産んだ子(イスマエル)を追放し、そのイスマエルがアラブ人の始祖となる。ここからユダヤ人やキリスト教はアラブ人を一段低く見、無意識の差別が始まる。
 さらに、ユダヤ人には神から選ばれた特別な民族(選民)という意識があり、それはキリスト教へと受け継がれていった。ヨーロッパ諸国が16世紀以降、植民地をアジアやアフリカ、そして、中東へと広げていった裏には、この選民意識がある。

 19世紀、それまで不毛の地で価値のないところと思われていた中東に石油が産出するに至って、欧米は競って中東を植民地下にしていった。ヨーロッパにとって中世は南アジアの香辛料、近世は中東の石油こそ金のなる木である。
 20世紀に入って、中東は次々と独立していったがヨーロッパの思惑が先行し、民族や伝統を度外視した線引きで国境が定められ、中東の多くの国で民族という大きな問題を引きずることになった。それが現代の東西冷戦にいたって政治的覇権と石油利権が絡み、中東は大国の代理戦争を繰り返すことになる。冷戦後はただ、石油利権だけである。そこで人々がどのような生活をしているかとか、どのような圧政が行われているかとか、貧困の中でどれだけ多くの人々が餓死状態にあるかということは関心の外であった。無関心こそ差別のなせる恐ろしい行為である。

 今回のテロ事件でいち早くアメリカの報復に同調したのはイギリスとフランスである。イギリスもフランスもかつては中東に植民地を持ち、搾取していった過去がある。両国とも中東からのテロにおびえ、いつアメリカのようなテロが襲ってくるかもしれない恐怖におびえている。アメリカもイギリス・フランスも過去の傷からくる恐怖に、狂ったように報復を叫ぶ。彼らは報復がまた新たな報復を招くことを百も承知である。この恐怖から逃れるために、報復をせざるを得ない。過去の付けは重い。

 報復戦争ではなにも解決しない。イスラム圏への差別をやめ、互いに兄弟として戦争と貧困をなくするために助け合っていくことが必要である。そのために、イスラム教とイスラム社会、そして、そこに住んでいる人々を深く理解する必要がある。

 それにしても日本は、このイギリスやフランスに後れをとるまじと、早々と支援を申し入れた。愚かで浅ましい行為である。日本は平和憲法をかざし、平和こそ解決の道であることを、なぜ、全世界に向かって叫ぶことができないのだろうか。それはまた、日本も植民地政策をアジア諸国に強いた国だからだろうか。