放蕩息子とふるさと

(2001.10.22)

ルカ 15:11-32


 イエスは言われた。
「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。
 『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません』
 しかし、父親は下僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、下僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。下僕は言った。
 『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』
 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』
 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」(ルカ15.11-32)


 福音書の中でも有名なこのたとえは、2千年の間、多くの人々に安らぎと希望と勇気を与えてきた。福音書の中でも、父である神の人類に対する哀れみと慈悲、慈しみをこれほど物語っている箇所はない。そのため、多くの人が語り、多くの芸術家が描き、多くの小説家や詩人の魂を揺すぶってきた。
 この箇所は、農村に住み、農業を営むものにとって現代日本の農村の姿そのものを映し出しているように思える。そのことについて少し考えてみたい。

 まず、この箇所を読んで驚かされるのは、農村や農業に希望を失った若者たちが都会に流出していくという都市と農村の関係が、二千年前のイスラエルと今の日本の状況と少しも違わないことである。この若者も次男として農業に希望を持てなかったのだろう。あるいは、都会の持っている異次元の世界、あるいは、異文化の世界に惹かれたのかもしれない。都会で一旗揚げようと父から財産の半分をもらい、さっそうと都会に出かけていった。たしかに、都会で見るもの聞くものすべてが新鮮で刺激に満ちていた。農村での刺激のない、毎日毎日が泥と汗にまみれた生活とは大違いである。金さえあれば何でも手に入る。金さえあればおもしろおかしく暮らすこともできる。
 金のあるところには人も集まってきた。この若者は、まるでバブル期の日本のような生活を送り、金に飽かせて偽りの友人たちと放蕩の限りを尽くしてしまう。しかし、バブルはそんなに長くは続かない。バブル崩壊と大不況がおそってきた。金がなくなると友人たちは一人また一人と彼のもとを去り、ついには誰一人いなくなり、人脈もつきてしまった。
 仕事を探しても仕事はない。仕事といえば3K(きつい、きたない、きけん)の仕事だけである。今の日本でいえば、外国人労働者や寄せ場の人々がこのような仕事に関わっている。彼が得た仕事といえば、律法で汚れたものとしてユダヤ人は決して口にしない豚を飼う仕事だけであった。しかも、彼は豚のえさで腹を満たそうとしたが、それさえもままならなかった。

 若者は都会の華やかさの裏に潜む冷酷さに、いま初めて気がついた。金がなければいとも簡単に自分のもとを去っていく人間関係の希薄さ。金がなければ今日一日さえ生きていけない金中心の世界。そこにうごめく貪欲な人間模様。

 彼はどん底の逆境にいたってようやくふるさとに目覚めた。ふるさとには少なくとも食べ物はある。今さらおめおめとふるさとに帰れる自分ではないが、それでも飢え死よりはましである。彼は意を決してふるさとに帰っていった。
 都会で傷つき、ぼろぼろになっても、ふるさとへ戻れない若者は多い。ふるさとへ戻っても仕事はないし、ふるさとで受け入れられる保証はない。周囲の目には厳しいものもある。しかし、そこには父母の暖かいふところがあり、自分が生まれ育った懐かしい家と自然がある。
 身も心もぼろぼろになって若者はふるさとへ帰っていった。途中、何度も都会へ戻ろうと思ったかしれない。父は許してくれるだろうか。あの厳しい兄は? それでも若者はふるさとへ向かった。このぼろぼろになった心にふるさとの癒しがほしかった。
 家が遠くに見えたとき、ここから逃げ出したい衝動に見舞われたことであろう。でもそこに、自分を待っている父の姿が見えた。いままでのこだわりがスーっと抜け、父の懐に飛び込んでいった。
 父は彼を暖かく迎え入れてくれた。彼を赦したばかりではなく、もとのように息子として受け入れた。そして、彼が自分を取り戻し、帰ってきてくれたことを家中で祝ってくれた。若者はようやく自分の居場所を見つけたのである。
 しかし、兄は彼に対しては厳しく、赦そうとはしなかった。

 イエスの話はここで終わっている。彼は父である神の人類への慈しみと哀れみを述べ伝えたかったのである。私たちはここから十分すぎるほどの神の愛をくみ取ってきた。しかし、その後の若者の人生を想像すると、不安がわいてくる。
イエスは必要なことしか語ろうとしない。だからその後のことは私たちの想像に任せるしかない。
 遺産を相続してしまった彼にはもう財産はない。今は父が彼を守ってくれる。しかし、父親が亡くなった後、一生、兄のもとで一農民労働者として暮らしていけるのだろうか。あの厳しい兄とうまくやっていけるのだろうか、等々。

 ふるさとで心身共にいやされた彼は、別人となって新しい人生を歩むだろう。おそらく、また父の家を出ていくかもしれない。しかし、以前の彼とは違う人生を歩むことだろう。
 農村には人を癒すという不思議な力がある。農村に住まうかどうかというのはその人の人生であって、かならずしも農村に住む必要はない。農村とて理想の世界ではないからである。しかし、自然や人の心を通して神にふれ、自分を取り戻すという都市生活とは違う農村の意味を再認識する必要がある。農村を知り、自然を守ることは、結果的には自分を守ることにつながるのである。