たくわえる喜び


 イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
 (ルカ 12.16-21)
     

 今年は例年にない長雨と低温続きではあったものの、稲の出来は昨年の3倍近くもあった。昨年は育苗の失敗から極度に不作で、私一人が一年間食べるだけの量しか採れなかったが、今年は育苗がうまくいき、いままででもっとも収穫が多かった。
 私のところでは、味が落ちないようにと籾のまま保存する。そのため、玄米や白米で保存するよりも量が多くなる。いままで30kg袋が12袋はいる保存庫があったが、今年はこれでは入りきらない。そこで新たに保存庫を購入することにした。
 また、冬にはマイナス10度ぐらいにはなる時もあるので、サツマイモやジャガイモなど野菜の保存庫も必要になる。農作業も一段落したので、これから材料を買ってきて自作することにした。

 それにしても、保存庫いっぱいに米袋がつまっているのを見ると、豊かな気分になる。今年もがんばったという充実感と、これで飢えることがないという安心感が湧いてくる。
 そのような時、ふと思い出されるのがあのイエスの言葉である。安心のためにいくら蓄えても、大切なものを忘れてはなんにもならない、というところである。たしか、共産主義の提唱者マルクスも、蓄えるところから権力が生じ、階級が生まれると史的唯物論の中で語っていた。そういう意味では、旧約聖書でも農耕に潜む蓄えることから生じるどん欲と貧富の差が非難され、その危険性の少ない牧畜がよしとされている。
 私の属している修道会の創立者で、13世紀に生きたアシジの聖フランシスコも、蓄えるためには大きな建物が、そして、それを守るために兵力が必要になるため、無所有を貫き通した。彼もまた、蓄えることに物欲と権力への危険性を見ていたのである。
 バブル期とその崩壊後に、金に躍らされた多くに人たちの悲劇を見聞きしてきた。金と引き替えに大切なものを見失った日本社会はなにを得たのだろうか。環境破壊、自然破壊、家族の崩壊、青少年非行の増加、リストラと中高年の自殺、等々あまりにもその犠牲は大きかった。

 蓄えることの危険性は感じながらも、厳しい冬を乗り越えるための蓄えがあることに安心する、そのような蓄えに複雑な心境になる。