教会の未来を農村に見る

(11.24)


 いま農村で新しい胎動が起こってきているといわれています。農協や役所主導でない、無農薬・有機栽培、産地直送、昔の農産物や加工食品の掘り起こし、オーナー制度、青空市場、都市と農村の連帯など、さまざまな試みが元気印のお年寄りから若者まで、とくに、お母さん方によって行われるようになりました。
 現代日本が抱えるいろいろな問題、そのなかでも高齢化や過疎化、不景気などをどこよりも早く体験した農村が、政治に利用され、政治家の票田として補助金漬けになっていた現状から、自分たちの力で生きていくことを選択しだしたのです。

 「自分が変われば、世の中が変わる」 
 こんな言葉が農村で言われるようになりました。これは昭和の農聖といわれた松田喜一の言葉ですが、これは「自分ができるんだから、他の人もできるはずだ」という、人間への深い信頼と連帯感に裏付けされた言葉です。変革や改革を他人に押しつけるのではなく、まず、自分から始めよう、こんな自分でもできるんだ、ましてや、他の人はもっとできるだろう、というのです。都会に住んでいる人々は皆ではないにしてもどこかで、農村の人々は古い因習にとらわれ、自分から進んで何事かをしようとしない無能の人々、といった蔑視の気持ちを持っているような気がします。そのような面はあるにしても、それは都市も同じです。
 農村はじょじょにですが、変わろうとしています。

 カトリック教会も、過疎化(信徒の減少)と高齢化、不景気(不活気)を先取りしてきました。まるで教会が日本の預言者として、将来の姿を見せてきたような気がします。これは私見ですが、人(宣教師)も金(海外からの援助金)も外国からの援助漬けで、どこか日本の農村と似通った体質になってしまいました。教会が社会から無視され、信徒が減少し、洗礼も少ない。その上、司祭の高齢化と減少は司祭不在の教会が増え、信仰生活の停りを感じます。
 農村はその危機的な状況を積極的に受け止め、乗り越えようとしています。だからこそ、いま、農村に目を向けてほしいと思うのです。

 環境問題と貧困撲滅が21世紀の大きな課題だといわれていますが、どちらも教会の中では低調な動きしか見えてきません。神様が造られたこの大自然とイエスが命をかけて救おうとされた人類、私たちのもっとも気に掛かる問題なはずです。教会が人々と共に歩み、現代に生きるものであることを証するためにも、 この神の大きな関心事である二つの問題に関わることが必要です。そのために、私たちがしっかりと福音に立ち、現代を見据える信仰の目を持ち、教会に多様性や柔軟性を取り戻すとともに「自分が変われば教会も変わる。自分と教会が変われば社会も変わる」という気概が必要です。なぜなら、私たちは、「地の塩、世の光」としての使命をキリストから受けているからです。
 環境問題は自然環境の保護なしにはあり得ません。水、空気、食物、などどれをとってもその源泉は農村にあります。ですから環境問題を考え、環境を守っていくには都市と農村の連帯が欠かせません。そして、それは環境問題に限らず心の問題にも深く関わってきます。

 農村も決して理想の世界ではありませんが、教会に欠けている農村の発想、つまり、農村の未来に向けた取り組みを取り入れることによって、教会も活性化ができると思っています。しかし、そのような思いは、なかなか教会の中で通用しません。どうしても自分の救いが中心であり、他人の救いや人間以外のことには目が向かないからです。神の国の完成とは、神が創造されたすべてのものの完成なのに。それでも農村や農業を理解してくれる方々が教会の中に確実に増えてきていることはうれしい限りです。