待降節に寄せて
(2024.12.10)


 いよいよ12月1日から待降節に入った。
 待降節とは救い主(キリスト、メシア)の到来を待ち望む期間をいうが、到来には二つの到来がある。
 第一の到来は、二千年前に神の御子が人となってこの世に来られたこと、つまり、神の御子が聖母マリアからお生まれになって、人々の中にお住まいになったこと、第二の到来は、世の終わり(終末)に再び来られること(再臨)を意味している。第一の到来は過去のこと、第二の到来は未来のこと。今は第一の到来と第二の到来のただ中にある。このただ中で、私たちは何を目指し、どう生きていけばよいのかを問われているのがこの待降節である。
 イエスが御生まれになったあの時代、ユダヤの貧しい人や弱い立場に置かれていた人々は、頼るものもなく、ただひたすらに神の救いの到来を待ち望んでいた。人間社会には、いつの時代にも差別や偏見、暴力的な支配が渦巻いている。無力な人々の力ではどうすることもできないことも多い。いつの時代も、そして現代もそのような人々は救いを待ち望むようになる。そのような希望を持てる社会はまだいい。しかし、そのような希望さえも持てない絶望的な社会や状況が現にある。例えば、ウクライナやガザのような、あるいは泥水を飲料水にしなければならないようなスラムや内乱でいつもいのちの危険にさらされている最貧国、あるいは身近なところでは家庭崩壊や学級崩壊、子供の貧困や高齢者の貧困と孤独死、などなど。
 救いはすでに来ている。しかし、救いがまだ行き渡っていないところがある。キリストは救いの到来を全世界に告げ知らせ、その実現を人類に委ねられた。平和な世界、哀れみと慈しみに満ちた世界、愛し合い、許し合う世界、正義に満ちた世界、そのような世界の実現、即ち神の国の完成を人間に委ねられたのである。人類がそのような世界を、自分たちの力で築いていってこそ、自由で自主性のある人間に成長していくからである。人間の偉大さ、尊厳はここにある。しかも、その人間の働きには、いつも私たちを助け、励ましてくださる神の恵みが注がれている。
 第二の到来は、世の終わり、終末であるが、それは世界の崩壊、滅亡ではなく、人間とこの世界、すべての被造物の完成,、神の国の成就の時である。イエスが御父から受けたキリスト(救い主)としての役割を完成されるときこそ、終末、世の終わりである。

 第一の到来を祝い感謝すると共に、救いが全地に行き渡るよう生き、第二の到来を待ち望みながら世の完成に向かって生きていく、これが待降節の意味である。