身体と信仰

道元禅とカトリック霊性・フランシスコの霊性の出会い

(2)

2018.4.15


 復活祭の翌日、昨年の夏に歩いた熊野古道のバスで端折ってしまった部分を、二日かけて歩いてきた。三つの峠を登り下りする熊野古道中辺路(なかへじ)の最もきつい部分、継桜王子から発心門王子までである。一日目は継桜王子から小広王子まで、平坦で2時間だけという足慣らし程度ですんだが、いよいよ二日目、中辺路の最難関、熊瀬川王子から発心門王子までだ。
 朝、バスを降りて6時半、いよいよ開始である。76歳という年齢と体力に合わせて休み休み、時間をかけて歩く。熊瀬川から発心門まで標準で5時間の所を7時間、発心門から本宮大社まで2時間の所を3時間、休憩や食事時間を入れて計10時間かかった。一日の歩行時間としてはいままで最長である。
 昨年は中辺路が初めてということもあって、千数百年の間にこの道をたどったであろう人々の心や気持ちを思いながら歩くゆとりがあったが、今回は年齢から来る体力の消耗と、最後の発心門から本宮大社までの間は昨年も歩いているので緊張感に欠け、あまり感動もなく、最後の方は体力の限界、思考停止のもうろうとした状態で歩いていた。(ちょっと危なかったかな)

 今回の古道歩きで考えさせられたことは、「身体とは何か」という事である。
 かつてこの熊野古道を歩いた人々は、厳しい山道を歩くという修行を通して仏になっていくという現世成仏を願って歩いた。身体を通して救いに至るという、キリスト教にはない思想である。
 キリスト教の世界では、人間は魂と肉体から出来ていて、肉体という物質は魂という精神を邪魔する存在として捉えられ、信仰行為はほとんど精神世界の中だけで考えられてきた。信仰は心や精神のこととして、肉体とは直接かかわりがないものとされてきた。そのために中世から近世にかけて、肉体に関わるさまざまな行為、例えば、食欲や性欲、睡眠欲などは動物的な本能と見なされ、汚らわしいものとして見なされてきた。修道者は一生貞潔を守り、食べることに喜びを感じるのは罪と見なし、睡眠を削って祈りにいそしんだ。その反動として、ヨーロッパ芸術に見られる肉体の造形美がもてはやされたのかもしれない。

 実は、魂と肉体、精神と物質という二元論は、2500年以上にわたるヨーロッパを支配してきた精神構造で、到底、ここで簡単に述べきれるものではない。ただ、聖書では人間は魂と肉体という二元論ではなく、人間は人間としかいいようのない存在として述べられている。これは東洋、とくに日本の神道や仏教の考えと近く、宗教を超えて対話が可能なところである。