いま・ここに・ある

道元禅とカトリック霊性・フランシスコの霊性の出会い

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 私は毎朝、45分ほどの坐禅をしている。坐禅と言っても正式な師について学んだわけでもなく、全くの独りよがりな坐禅であるが、一応、道元の曹洞禅である。坐禅を始めたのは山の中で農業をしていた頃で、それほど長い経験があるわけではないが、それでも道元の正法眼蔵やその石井恭二訳と水野菜穂子訳の現代文訳、そのほかの道元の著作等を通して付き合いは40年以上になる。道元の思想は、わたしの修道者としての生き方に大きな影響を与えて来たし、わたしの二十年にわたる農業生活にも、彼の影響があったのかもしれない。
 道元もアシジの聖フランシスコと同じ13世紀の人で、場所も遠く離れ、仏教とキリスト教の違いはあっても、自然観や宇宙観に近いものを感じ、違和感を抱かずに入っていけるところがある。わたしの場合は、江戸末期の曹洞宗の良寛の研究から道元に入っていった。

 道元は「正法眼蔵」坐禅儀で、坐禅の作法として右の足を左の腿の上に、左の足を右の腿の上に置く結跏趺坐(けっかふざ)か左の足を右の腿の上に置く半跏趺坐(はんかふざ)を指示しているが、私は20年の農業で膝が硬くなっていて、足を組むことが出来ない。だからといって坐禅が出来ないわけではないだろう、と椅子に座っての坐禅である。
 道元は正法眼蔵坐禅儀の中で「不動のまま坐を定めて思慮は不思慮となる。不思慮となる思慮は、、、非思慮である。思慮が届かない思慮である。これがすなわち坐禅の法である」と言い、一切の思考、思慮を離れることが坐禅だという。しかし、「離れる」という行為からも脱落しなければならない。なにかの目的も持たず、何かの意味もつけず、なにもなさず、ただひたすらに坐ること(只管打坐)が坐禅だと言う。

 坐禅の最中はいろいろな妄想が浮かんでは消え、消えては浮かんでくる。過去の、未来の、あそこに、こちらにと妄想は時と場所を越えてさまざまなことが浮かんでくる。過去のことが浮かんでくるのは当たり前と言えば当たり前であるが、まだ経験もしていない未来のことがあれこれと浮かんでくるのは何なのだろう。不思慮になっていないのだ。
 このいろいろな思いが浮かんでくるとき、わたしはその思いの過去か未来の時と、その場所にいる。わたしは今のこの場所とは違う時と場所にいることになる。このようなとき、最も根本的で大切なことから離れてしまっている。それは、「いま」、「ここに」、「私はある」、と言うことから違う時間と空間と自分を生きていることになる。
 妄想が浮かんでくる時、はっと、わたしは今ここで坐っている、と気づかせてくれる。つまり、この瞬間のこの自分に戻ることが坐禅なのかと、少しだけわからせてもらう。そういう意味では、妄想も意味のあるものなのかもしれない。

 私は今ここに「いる」のではなく、ここに「ある」。「いる」という行為(動作)ではなく、「ある」という状態。なぜ、「ある」ということにこだわるのか、それは次のような理由からである。

 旧約聖書の出エジプト記で、モーセがエジプトの同胞を救い出すという使命のために神から呼び出されたとき、同胞から「その名は何というのか」と聞かれたら、何と答えたらいいか、と神に尋ねると、神は「わたしは『ある』ものである」と答えられた。(出エジプト 3.13-14)(フランシスコ会聖書研究所訳) 新共同訳では、「わたしはある。わたしはあるという者だ」となっている。

 神は「ある」という者、「ある」という存在である。神は永遠に、他者を必要とせず、自ら存在する、「ある」そのもの。
 神には時間がない。過去も未来もない、ただあるのは「いま」だけである。また、神には空間(場所)もない。あるのは「ここ」だけである。
 神とは、永遠にわたって、無限に「いま」「ここに」「ある」お方である。

 わたしも、いま、ここにある。しかし、次の瞬間にはどうなるかわからない「ある」であり、「ある」が「ない」になっているかもしれない。それが神と被造物の決定的な違いであるが、それでも、今のこの瞬間、ここにあるということは事実であり、そのことにおいて神と宇宙万物と「ある」を共有出来る。
 次の瞬間にはどうなるかわからない小さくはかない「ある」も、宇宙創造の前から神に愛され、造られ、命を吹き込まれ、そして、いまここにある。そのあるを今ここで生きる。そんな坐禅である。