クリスマスは神の創造の賛歌

(12.21)


 今年もまたクリスマスが近づいてきた。日本でもすっかりとクリスマスは一年を締めくくるイベントの一つになってしまった。
 一年を締めくくるクリスマス、しかし、キリスト教の考えでは、クリスマスから一年が始まる。生を受けるということは、終わりではなく、始まりだからである。また、クリスマスが祝われる時期は冬至が終わった頃で、これから夜がだんだん短くなり、反対に昼間が長くなっていき、夜の時代が終わり、昼の時代が始まる、という意味もある。クリスマスに光が多用される意味もここにある。

 新約聖書で、イエス誕生の記事は驚くほど少ない。いま、私たちがクリスマスで祝うご誕生の描写は、ほとんどルカ福音書によるもので、マタイ福音書では、ヨセフはマリアと結婚し、マリアは男の子を産み、名をイエスと名付けた、とあるぐらいで、あと、ヨハネ福音書に象徴的な言い方で触れているぐらいである。

 「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。」
 
(ルカ福音書 2章1−16節)

 イエスご誕生の場に、居合わせたのはヨセフ、マリアと羊飼いたち、それに家畜たち(飼い葉桶のぬし)である。多くの画家や彫刻家たちはこの情景を絵に描き、像に刻んできた。カトリック教会では13世紀のアシジの聖フランシスコが実際の人間や家畜でそれを再現し、それ以来、ミニチュアの像が教会や家庭で飾られてきた。その誕生の情景は、宗教の違いを越えて、戦争や貧困、病気などで荒れすさんだ社会に、また、家庭で多くの人々の心を和ませ、癒してきた。今も私たちはイエスの誕生の情景に、やさしさやあたたかさ、愛や平和を感じ、家族愛や友情を大切にし、争いをやめ、一時休戦も行われてきた。人々はそこに心の故郷を見いだしてきたに違いない。
 そんなにこのイエス誕生の光景は偉大なものなのだろうか。もちろん、キリスト者にとっては偉大な出来事には違いないが、宗教の異なる人々にとってはただの誕生物語である。ここにはごく平凡な大工の一家と羊飼いがいるだけである。それなのになぜ、時代を越え、民族を越え、宗教を越えて、人々はここに心の故郷を見いだすのであろうか。
 ここには産み、育てる人たちと動物たちが集っている。産む、生み出す、創る、ということは、愛といのち、希望と平和、をかもし出す生命あるすべてのものの営みである。人々は人間ばかりではなく家畜や農産物が産むとか生まれるということに神の恵みと祝福を感じ、ほとんどの民族で多産や豊穣の神々が祀られ、信仰を集めてきた。
 私たち人間は、出産や豊穣を通して「知られざる神」(使徒の宣教 17章23節)である神の創造を讃え、祈願してきた。キリスト教徒にとってはそれがイエス誕生の物語である。

 キリスト教においても、中世以前は自然界との関わりも深かったと思われるが、近世以降、救いと復活に重点が置かれ、神の創造は忘れ去られてきた。私たちの信仰を告白したものとして信仰宣言があり、日曜日や祭日ごとにその信仰宣言を唱えている。「天地の創造主」とまず唱えるが、それが唱えるだけに終わってしまい、実感として湧いてこないのが実状である。口先だけの信仰宣言では、本物の宣言にはならない。そのような矛盾を抱えたまま、生き生きとした信仰を生きることは不可能である。

 キリスト教はガリレオ・ガリレイ以降、現実の科学の世界に入ることに極度に臆病になり、現実から目を背け、狭い精神世界にだけ目を向けるようになってしまった。そのため、神の創造は科学者の手に渡り、教会はそれに対して沈黙し、科学者も神のない宇宙や世界を求めるようになった。今は、ごく初歩的なものではあるが生命を科学の力で造り出そうと試み、人間のもっとも神秘的な分野である産む・生まれるということも、クローン人間や遺伝子操作により生命の創造を神の手から奪おうとしている。
 また、自然界に対する傍若無人な振る舞いは尽きることを知らず、自然破壊、環境破壊は今や地球規模にまでおよんでいる。ここにも、信仰と科学は別のものとして自然界に目をつぶってきた、教会とキリスト者の責任は大きいといわざるを得ない。
 また、この誕生はただ地球上の生命だけのものではない。宇宙の初めに無からすさまじいばかりの高温で高密度の物体が創られ(ビッグ・バン)、それが10のー36乗秒後に大爆発して膨張し(インフレーション宇宙論)、宇宙が始まったとする説が今のところ定説になっている。それ以来、多くの星が誕生し、消滅し、また誕生するといった生成と消滅を繰り返してきている。ちなみに宇宙の年齢は130億歳前後だそうである。
 今や科学者たちは、神なしに宇宙の誕生を説明することが出来ると豪語している。
 それに対し、いま、北アメリカ南部で勢力を持っている、旧約聖書の記述通りの天地創造を科学的に証明できるという「創造論」が幅をきかせているらしいが、これはは論外だと私は思っているが、私たちが目をそらしてきた神の創造の世界に立ち戻らなければ、神のいない世界と旧約聖書の創世記をそのまま信じる「創造論」という両極端に分かれてしまうだろう。

 私たちは信仰の目をもって、宇宙を思い、地球上の生物や人間を論じることは不可能なのだろうか。牧歌的なノスタルジーからではなく、創造や生命、生まれるということを私たちの信仰の中に取り戻していきたい、そうしなければ、クリスマスはただの牧歌的なノエル(フランス語でクリスマス)で終わってしまう。