苦しみの神秘


  さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。
 「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
 (ヨハネ 1:1-3、なお1:4-41参照))

 私たちの中には、さまざまな重荷を背負って生まれてくる人がいる。たとえば、身体的障害や精神的障害、差別を受ける病気、差別され迫害されている民族や人種、等々。なぜ、この人だけが、なぜ自分だけが、と問うてみたところで答えは見つからない。古来より、人類はこの不条理な現実を、運命とか宿命として、あるいは、たたりとか罰として、あるいは、神の思し召しとしてあきらめ、無理に納得しようとしてきた。人間の力の及ばない世界の出来事として理解した方が、まだ、あきらめがついたからかもしれない。
 しかし、それも考えてみれば残酷なことである。神が原因では、人間の力が及ばず、解決の出口が見いだせない苦しみになってしまうからである。

 イエスはまず、生まれながらの苦しみに対して、罪による因果応報を否定した。罰でもたたりでもない、ましてや、神が与えるものではない。「愛である神」(1ヨハネ 4:8)は、人間を愛し、人間を救い、人間に永遠のいのちを与えようとするお方である。人間一人ひとりが永遠に幸せであってほしいと願う神は、人間に不幸や苦しみを与えることはできない、というよりも、不幸や苦しみは神と矛盾したものなのである。
 
 不幸や苦しみというものは人間が作り出すものであると、私は考えている。目が見えないから不幸なのではなく、目が見えない人が不幸になるような世界を目が見える人たちが作り出している。手足が不自由だから不幸なのではなく、手足の不自由な人が不幸になるような社会を手足の不自由でない人々が作り出している。また、日本人でない人々が不幸になるような社会を日本人が作り出し、老人が不幸になるような社会を老人でない人々が作り出している。
 私たちの心の中に、自分たちと異なるものを排斥しようとする傾きがある限り、そこに差別が生じ、不幸が生み出されていくのである。

 ヨハネ福音書の9章4節以降では、生まれながら目が見えないという現状を、本人、あるいは両親の罪の結果として捉えている祭司たちがでてくる。その方が祭司たちにとっていろいろと都合がよい。なによりも、人の弱みを握ることによって権威と金を手中にすることができる。現代にあっても、それで金集めをする宗教があるぐらいだ。金と数(信徒数)と権威という3Kは、宗教者ばかりでなく政治家や指導的立場にあるものの陥りやすい誘惑である。

 3節で障害を持って苦しんでいる人々にとって、理解しがたく受け入れがたい言葉が続く。「神の業がこの人に現れるため」という一節である。これではまるで、神のために障害を持って生まれてくるようなものではないか。神の栄光のために、このような苦しみを背負わなければならないのか。神の気まぐれで、この世に不幸があるのだろうか。けっきょく、人間は神のために存在するのか。
 この箇所は翻訳のニュアンスによって、ずいぶんと意味が異なってくる。語学に弱い私にとって、聖書のこのような問題については日本語に翻訳されたものに頼るしかないが、それでもなにか日本語の訳がちょっと違うような気がする。
 聖書学者で、大阪の釜が崎に住んでいる本田哲郎師が訳された「小さくされた人々のための福音」(下)(新世社)では、この箇所は次のようになっている。

 「この人が道をふみはずしたわけでも、
  両親が道をふみはずしたわけでもない。
  神の生きざまが、この人によって
  はっきり表されるためである。」


 「神の業」は「わざ」「力」「栄光」といろいろ訳されているが、本田師は「神の生きざま」と訳している。彼は、『ヤーウェ(神)』とは『わたしはあなたとともにある』ということを意味していると言い、それが彼の学説と生活の中核をなしている。人間は神のためにあるのではなく、神が人間、とくに弱い立場に追いやられている人々の側にいてくださる、これが「神の生きざま」であり、福音のメッセージであるというのである。
 
 本田師の訳でもまだ引っかかるものがある。ほかの日本語訳でもそうであるが、「(この人が生まれつき目が見えないのは)〜ためである」という文章の「ため」という言葉にひっかかりを感じるのである。
「ため」という語は「広辞苑」によると、利益や利得、目的、因果関係、身の上などを意味するとある。
 神と人間の関係は、「〜のため」(To be for)という利害や因果関係のつながりより、「〜とともに」(To be with)という愛のつながりのはずである。イエスのあの言葉は、生まれながらにして目が見えないという現実の因果関係を探ることよりも、神がこの人とともにいてくださるということの方がもっと大切なことではないか、たとえ世界中の人々から排斥され、さげすまれ、無視されても神だけはあなたのそばにいる、それが神であり、神の生きざまなのだ、ということを表している。

 人間の社会には、どう考えてもわからない不条理な苦しみや不幸が数多くある。人種差別や部落差別のようないわれなき差別、生まれながらの障害、貧富の差や家柄、学歴社会、そして、今の日本においては倒産とリストラ、解雇、等々。
 不幸や苦しみが人間の作り出したものならば、人間の力でそれを克服することができるはずだ。逆説的な希望である。不幸や苦しみが運命や宿命として人間の力を越えたものではないことが、私たちに生きる勇気と希望を与えてくれるのである。しかも、神がいつもどこでも、そばにいてくださるのだ。
 聖書は必ずしも不幸や苦しみについて深い原因究明をしていない。しかし、それを克服していく力と勇気は与えてくれる。それがユダヤ教徒やキリスト教徒は、苦しみや不幸をしっかりと受け止めることができない輩だ、と非難されるもとになっているのだが。

 イエスは不幸や苦しみについて、多くは語っていない。なぜ苦しみがあるのか、不幸はどこからくるのか、それについてくわしくは解き明かしてはいない。苦しみや不幸は謎に閉ざされ、神秘として世の終わりまで続いていくのだろう。
 イエスにとって、理論的に、また、学問的に解き明かしたところでそれが解決にはならないことをご存じであった。それより大切なことは、神が苦しんでいる人々のそばにいてくださることを確信し、互いに愛し合い、許し合い、受け入れあうことによって苦しみや不幸を克服することができること、だからこそ、神の助けはどうしても必要であるにしても、苦しみや不幸を克服し、取り除いていくのは人間自身であることをイエスは身をもって示していかれた。