ガンに遭うがよく候

道元禅とカトリック霊性・フランシスコの霊性の出会い

(3)

2018.6.2


 「日々のうつろい」5月4日の項で、良寛の言葉として、「災難に遭う時節には、災難に遭うのがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。」という一節を挙げ、自分のこととして「前立腺がんに遭う時節には、前立腺ガンに遭うがよく候。手術に遭う時節には、手術がよく候。」と書いた。
 ところが、この言葉の意味がよくわからないので説明してくれ、という声があったので、わたしの考えを述べることにする。

 1828(文政11)年11月12日、越後地方をマグニチュード6.9(現代の地震学者の推定)の地震が襲った。家屋の倒壊1万戸、死者約1400人を出した大きな地震であった。災害に遭った良寛(道元の曹洞宗の僧侶)は、そのことを親友の俳人、山田杜皐(とこう)に宛てた手紙の中で次のように言っている。
 「災難に遭ふ時節には災難に遭ふがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるる妙法にて候」

 これについて、入矢義高(禅文化研究所教授)は、「まさに良寛のいう『任運(にんぬん)』の本領を示したものと言える。任運とは、成りゆきのままに任せきって、一切の計らいと施為(せい)を捨て去った生き方のこと」と解説しているが、これではまったくの受け身的な自然随順ではないか。
 入谷教授は、良寛のひょうひょうとした生き方を見るとそのように理解出来なくはないが、しかし、彼の詩歌、とくに漢詩からは、それがその災難を回避するのでもなく、また超克しようとするのでもなく、逆に徹底してそれを我が身に背負い込むこと、甘受の諦念ではなく、捨て身の無作行である、と述べている。(禅入門 12 良寛 入矢義高 講談社出版研究所)
 私には分かったような分からないような、それが禅だ、と言われれば、あー、そうですか、と答えるしかない、そんな説明であるが、私にこの良寛の言葉の意味を分からせてくれたのは、あの東日本大震災・大津波の被害者の方々であった。
 自分の家族や身内、土地や家、職場を失い、心に深い傷を負いながら、そして、明日に大きな不安と心配を抱えながらも、今を海と共に生きようとしている姿に、良寛の言わんとしていることはこれなんだ、と合点がいった次第である。
 過去は過去、今、この場で、生きるしかない、それ以外にどんな生き方があるというのだ。被害者の方のギリギリに追い込まれた言葉に、甘受の諦観とは異なる、災難を我が身に背負い、現実に身を曝し、海に身を任せながらながら、明日に向かって生きていこうとしているその姿こそ、任運の生き方なのであろう。
 あれだけ海にひどい仕打ちを受けながら、それでも海と共に生きようとするあの強さは、一体どこから来るのだろうか。もしかすると、それは強さではなく、そのような海に最後まで逆らい通すことの出来ない弱さなのかもしれない。どちらにせよ、災難に遭った人でなければ分からない、何かなのだろう。

 ここからは自己流の解釈。
 禅に「即今当処自己」という言葉がある。「今、ここで、自己を生きる」という意味である。わたしの人生とは、「いま」という時間、「ここ」という場所、「自己」のわたしの積み重ね、連続である。過去のわたしはもう実在しないし、未来のわたしもまだ存在していない。わたしはどこかの場所ではなく、この場所にいる。そして、わたしは他人ではなく、自己を生きている。
 ガンにかかっていない時の過去の自分、または、ガンが完治した、あるいは、さらに悪化した未来の自分、ではなく、ガンを持っている今のこの瞬間の自分。病院で入院している自分、どこか大自然に囲まれた静かなところでの自分、ではなく、このパトカーや救急車のサイレンがしょっちゅう聞こえてくる大阪生野のこの修道院にいるこの自分。これが「即今当処自己」である。
 「ガンに遭う時節には、ガンに遭うがよく候」とは「今まさにガンを患っているこの自分を生きていく」という意味である。ガン患者としてガン治療に全力を尽くすのは当然なことではあるが、しばしば、やれ治療だ、やれ食事療法だ、やれなんだかんだとガンにだけ目が行き、ガンにかかっている私自身は私から無視されていく。私は私を生きていない。私は、ガンに振り回されて自己を見失っている。災難に遭う時の危険性である。

 たとえガンにかかっていようとも、神に愛され、神に造られ、神に救われた自分、そのような自分が愛おしくなってくる。

 ガンを生きるとはどういうことなのか、はまだ分からない。日日生きるということの中で、見えてくるのだろうと思っている。