日々のうつろい              日々の思ったこと、感じたことをつれづれに


 
今年のクリスマス   (2024.12.25)
 今年もまたクリスマスが巡ってきた。かつてのような高揚感やワクワク感がなくなり、なにか物足りなさを感じるクリスマスである。年齢と共に、クリスマスの感じ方も変わってくるようだ。
 私にとってのクリスマスは、24日クリスマスイブの暗くなってからの夜半のミサよりも、25日の日中のミサの方が好きである。それは、そのミサに深い思い出があるからである。
 私がまだ、南信州の山奥で農業をしていた頃、担当していた教会でクリスマスの日中のミサを行っていた。そのとき、ヨハネ福音書1章のいわゆるロゴス(ことば)の賛歌を朗読中に今でもうれしくなる気づきの体験があった。
 「万物は言(ことば)によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(ヨハネ1.3)「言は肉となって、私たちの間に宿られた。」(同1.14)。という箇所で、ふと私が毎日手にする田んぼの稲や畑の野菜は、言、即ち、イエス・キリストによって造られたものではないか、と気づいたからである。なんと、私は毎日、キリストに囲まれ、キリストに触れ、キリストと共に生きているではないか。長いこと探し求めていたキリストが、すぐ側にいるではないか。
 この体験は私の中で、大きな変化をもたらした。
 今年のクリスマスも、これを思いながら迎えた。


 
クリスマスへカウントダウン     (2024.12.17)
 今日は17日、クリスマスの8日前で、「教会の祈り」ではクリスマスに向けてカウントダウンが始まる。ミサでもイエスのご誕生まえの緊迫感が感じられるようになる。これは待降節の意味でもあるメシアを待ち望むという緊迫感もさることながら、より庶民的なイエスのご誕生を祝うという華やかで喜びに満ちた祝日だからである。
 クリスマスには不思議な魅力がある。それは宗教を超えて誰もが祝いたくなるという不思議な魅力と、戦争や争いが馬鹿馬鹿しく思える不思議である。
一人の小さないのちが生まれてくる、というのは殺し合ったり傷つけ合ったりするのとまるで逆のこと。国が違う、民族が違う、宗教が違う、といがみ合ったり争ったりするそのような大人の世界を、小さな幼子は温かく包み込んでいく。しかし、戦争には、戦争犠牲者の3分の1は子供たちだという残酷な事実がある。
 小さないのちの誕生は、いがみ合ったり争い合う世界への異議申し立てなのだ。
 今年こそ平和で争いのないクリスマスであることを祈るばかりである。


ホームページの再開     (2024.12.7)
 いままで4年間ほど中断していたホームページを、再開しようと思います。この間、コロナワクチンの副作用で、ひどい疲労感と倦怠感に襲われ、意識を失って倒れるということが5度ほどありました。倦怠感からかやる気が出てこない、というのはけっこうつらいものですね。
 しかし、今はすっかりその後遺症からも解放され、通常の自分に戻ったと感じています。
 年齢も今年で83歳になり、今は東京六本木の本部修道院で隠居生活をしていますが、老化防止というより、自分の人生にいのちを吹き込むために、このホームページを再開しようと思い立ったわけです。
 以前のように、毎日の生活に変化があるわけではないので、単調になってしまうかもしれませんが、日々思うことを書き連ねていきたいと思っています。