日々のうつろい              日々の思ったこと、感じたことをつれづれに



農村時代を振り返る    (9.20)
 この「いも通信」にどうしてあの農村時代の記事がないのか、と友人からの問いかけがあった。確かに言われてみればそうだ。あの百姓としての20年が欠けている。わずかに「プロフィール」の中に「20年のまとめ」として一文があるだけだ。
 私はどちらかというと、あまり過去にこだわらない方かもしれない。過去は過ぎ去ったもので、もう戻っては来ない。未来はまだ来ていない。現に存在するのは今、ここだけである、という道元の思想、あるいは、キリストの「今日の苦労は今日で足りる」とのお言葉を、あと一年で80に届くという歳になって、少しわかりかけてきたところである。
 過去を忘却の中に追いやっているのは、そのためなのか。
 どうやらそのような格好の良いものではなさそう。

 信州の山の中と大阪・東京六本木は、あまりにも環境が違いすぎる。私の中で現実を受け入れれない、あるいは現実に適応できないものがあるのだろう。そのために、過去を思い出さずに現実に適応しようとする無意識の作用が働いているようだ。
 過去を思い出したくない、過去を語りたくない、という思いは、同列に並べるのはあまりにもおこがましいが、あの東日本大震災の後、被災者がその出来事を語りたがらなかった、というのにどこか通じるものがある。

 しかし、語らなければならない。あの百姓として生きた20年を無駄にしないためにも、語らなければならない。今は、そう思っている。
 

六本木に農園を     (6.22)
 私の部屋の窓から、右にマンションの高層ビルが、左に東京テレビの高層ビルが、その間にマンションとその上に東京タワーの先端部分が見える。このヨゼフ修道院は4階建てで、屋上からは、東京ミッドタウン、六本木ヒルズ、テレビ東京、や赤坂、虎ノ門界隈の高層ビル群に取り囲まれているのを見ることができる。すぐ近くには都心環状線が走っていて、先には首相官邸、アメリカ大使館、国会議事堂、そして霞ヶ関がある。今や六本木は、東京でも有数の華やかなところになってしまった。

 この六本木に農場を作ろう、高層ビル群に囲まれたこの六本木で畑をやる、なんとも愉快な計画ではないか。というわけで、修道院の庭にミニトマト、ナス、ピーマン、オクラ、トウガラシを植えた。そのほか、中国からの宣教師がカボチャを育てている

 もちろん、無農薬・有機栽培である。日本の財力と技術の粋を集めて建設された高層ビル群の中で、なんとも自然的で原始的な農業である。突き詰めれば自然農法なのかもしれないが、そこまでは理解されないだろうと思い、無難な農法に落ち着いた。

 ミニトマトは五月の半ば過ぎに植え、いまは1米50ぐらいにまで大きくなっている。ナス、ピーマン、オクラはかなり出遅れたが、6月なかばの植付けである。梅雨の最中の植え付けは、苗にとってあまりよい状況ではないが、ある事情でこの季節になってしまった。病気にかからないかがちょっと心配である。

 中国の宣教師が植えたカボチャもかなり成長してきているが、花を咲かせるのは梅雨開けだろう。ただ、彼が植えたカボチャの種は、台所から出たカボチャの実からの種なので、実を結ばないかもしれない。というのは、F1化されたカボチャだろうと思うからである。

 F1化とは、実から取った種が同じ実をつけたのでは種が売れなくなってしまう。そこで種を売る会社は実から取った種では実をつけないよう、品種改良して一代限りの種にしてしまったのである。
 我々の食卓の野菜は、種苗会社に握られている。今、日本の食料の自給率は40%で、つまり、外国の種苗会社に60%もの日本の生命が支配されていることになる。(家畜の餌も、種苗会社の種を使用している) 現在、世界を支配し、動かしているのは油、石油だと言われるが、石油の次に世界を支配するようになるのは食料の元、種子だと言われている。品種改良され、特許を取った種子で世界を制覇しようと種子会社とその国家は画策しているという。
 私も20年間、F1種子を農協から買って使用していたので、非常に複雑な気持ちでいる。

 最近、閣内決定された「種苗法」について、インターネットで検索することをおすすめいたします。これは品種改良で得た種子を外国に流出しないよう、つまり、農的知的財産を守るための法律だそうである。しかし、この法律にも大きな欠点がある。それは農家が自己採種ができなくなることである。そこのところも、インターネットは詳しく教えてくれる。

以下、インターネットからF1種子についての引用
 「F1」というのは、生物学用語で、first filial generation ,交雑(他種とかけ合わせる)によって生まれた第一代目の子を意味し、日本語では「一代雑種」と言われる。. このF1種は、常にそろった品質の野菜ができ、生育も早く収量も多く、生産農家にとっては栽培計画が立てやすく、歩留まりもよいというメリットもある。. とにかく、味は良いが大きさや形も不揃いな固定種の野菜と比べて、F1種は大量生産に向いていることから、種苗業界は競ってF1種を開発するようになった。
   

ラウダート・シ特別年    (6.13)
 教皇フランシスコによって発布された回勅「ラウダート・シ」は、この5月24日で5年目を迎える。 地球環境の汚染、破壊による生態系の崩壊、それによる貧しい人たちがますます貧しくさせられているという現実を、地球をエコロジーと同じく家にたとえ、家と家に住む者が悲惨な状況にあることを訴え、警鐘を鳴らしている。
 環境汚染や環境破壊は、現代社会が抱える切実な問題であり、少々遅きに失するところはあるものの、大きな反響を呼ぶはずのものであった。ところがこの回勅は、地球から莫大な利益を得ている人たちや、それにかかわっている政治・経済・テクノロジー、そして、豊かな生活にどっぷりとつかっている人々からは、ほとんど顧みられることなく、無視されてきた。それは教会の中においても、同じ状況である。
 神のお望みよりも自分の望み・豊かさが大切。神よりも自分が大切、という自分中心・自己中心(罪)はわたしたちの骨の髄にまでしみこんでいる。ラウダート・シを読みながら浮かんでくるのは、現実を変えることの難しさ、しかも、絶望的とさえ感じる難しさである。
 たとえば、いまブラジルが置かれている状況である。利益第一主義の右翼系の大統領の下、アマゾンの広大な面積の熱帯雨林が伐採され、焼かれ、大豆畑や牛のための牧場にされている。新型コロナウイルス感染者(死者の数はアメリカに次いで二番目)の救済よりも、国家や企業の利益が優先されている。彼もカトリック教徒だろうと思われるが、彼にとってこの回勅には何の関心もないにちがいない。

 教皇フランシスコは絶望していない。神を信じ、人間を信じているから、この悲惨な状況を克服できると確信している。だからこそ、今年の5月24日から来年の5月24日までを、「ラウダート・シ特別年」に制定したのだろう。
 私もあらためて、私たちが住んでいる家に対する関心を深めたいと思っている。

 いまあらためて「ラウダート・シ」を読み返している。そして、私のホームページの「ラウダート・シを読む」の大改造に取り組んでいる。といっても私のできることはたいしたものではない。おそらく一年かかるだろう。
 

新型コロナウイルスへの無力感    (5.15)
 毎日世界中で、数万人が感染し、数千人が亡くなっていく新型コロナウイルス。
 5月15日現在で、世界で感染者数は444万人(患者数 255万人)、死者は30万人。日本では感染者数は1万6千人(患者数5150人)、死者は713人である。
 欧米や日本では感染者数や死亡数も減少傾向にあり、様々な規制も緩和されようとしているが、アフリカや中南米ではこれから感染が広がっていくのではと危惧されている。また、韓国やシンガポールのように収まったかのように見えた国で、再び感染が広がっているところもある。
 この新型コロナウイルスの正体はその道の専門家でも、まだ正確には把握していないようである。正確にわかっていれば、すでにワクチンや抗体が発見されているだろうから。
 言い古された言い方ではあるが、自然の猛威を前になすすべを知らずといったところで、それにしても、自然の猛威をまざまざと見せつけられた思いがする。医学が進歩し、これだけ衛生状態が良くなっているのに、これほどの感染者を出し、死者が出ているとは。とくに先進国と言われる国々で、猛威が顕著なのはなぜだろう。

 この世界的な大災害を前にふと自分の中にある、ある思いに気づかされた。大自然の猛威に対する無力感、という思いである。そうだ、あの東日本大災害がそうだった。あのとき、あの大災害を前に語る言葉を失い、思考が停止してしまったのだ。あのとき、いつもは雄弁に語っている宗教者たちは皆、沈黙してしてしまった。生と死のすさまじい現実をまざまざと見せつけられたあのときこそ、宗教者は語らなければならないのに。でも、皆沈黙してしまった。語れなかったのである。
 神や仏は何を思い、何を考えているのか。この大災害をどう理解し、どう説明したらよいのか。そして、何よりも、これからなにをどうすればよいのか、皆目見当がつかなかった。だから、黙ってしまった。
 今も同じ状況である。今、宗教者は何を語れるというのか。

 ここで数字というのは恐ろしいと思う。死者が30万人と聞いて、何を感じるだろうか。おそらく涙の一滴も出てこないのではないだろうか。身近の一人の死者のためには、枕を濡らすほどの涙が出てくる。しかし、30万人の死者のためには、「あ、そう」という返事しか出てこない。
 数字がゲーム化し、数字の増減に、一喜一憂するならまだいい、それもなしにただ知的な満座感だけで終わってしまう、そのようなテレビの前の自分に気づかされる。 

六本木修道院の所属になりました    (4.13)
 今まで治療のため六本木修道院にいましたが、この4月1日付けで正式に六本木修道院の所属になりました。信州の山奥から大阪、東京へと、日本の両極端を体験している気分です。六本木という環境に押しつぶされないよう、どう生きていけばよいのか、これから探っていくしかありません。
 4月の初めに大阪に行って荷物をまとめ、引っ越しをしました。ないようであるのが荷物。かなり処分したつもりですが、それでもミカン箱大の段ボールが9個。書籍と衣類、それにガラクタが結構やっかいです。
 引っ越し、コロナ騒ぎ、聖週間、ご復活と落ち着かない毎日でしたが、ようやく、落ち着いた気分になってきました。 

パソコンのトラブル    (2.26)
 昨年の暮れ頃からノートパソコンの調子がおかしくなった。よく電源が落ちてしまうのである。そして、年が明けて正月に、ついに初めての経験、Bit Lockというものがかかってしまい。パソコンを開くことができなくなってしまった。ドライブのセキュリティのための暗号化らしいのだが、一度Lockがかかってしまうと、それを解くのにアカウントだのパスワードなのと大変な作業が必要となるらしい。
 そのようなLockがかかるような設定はしていないのだが、Windows10はこのBitLockがかかりやすい欠点があるということだった。あちこち聞いたが、どこもBit Lockの解錠は扱っていないとのこと。結局、最後にたどり着いた結論は、中に入っているデーターもろともWindowsを消去(フォーマット)して、Windowsを入れ直すしかないということになった。
 ところがいざ、Windowsを再インストールという段になって、ノートパソコンに付随してきたWindowsが不具合で、再インストールできない。パソコンメーカーのWindowsに原因があることがわかるのに、また時間を食ってしまった。
 しかたないのでWindowsのソフトをパソコンショップに買いに行ったら、どこも在庫なし。入荷するのは一ヶ月先とのこと。
 ということでパソコンが再び動き出したのは2月22日、それから、ソフトを入れたり、バックアップして置いたデーターを入れたりと、あ〜、疲れた!!