日々のうつろい 日々の思ったこと、感じたことをつれづれに
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教皇レオ14世 (5.20)
5月8日、コンクラーベでアメリカ出身のロバート・フランシス・プレボスト枢機卿が教皇に選ばれ、レオ14世と名乗ることになった。そして、その十日後、5月18日にペトロ大聖堂で就任ミサが行われた。このミサの中で、教皇の使徒職を象徴するパリウムという首に架けるものと、漁夫の指輪受ける式を通してペトロの後継者、ローマの司教座に着座することになる。
教皇選出についてはいろいろと報道さてたので繰り返すことはしないが、矢張り一番気になることはどのような路線をとるのか、ということである。前任者のフランシスコの路線なのか、それとも反フランシスコなのか。
彼はまず、労働者の権利を擁護したレオ13世に敬意を表し、その名をいただいたと述べ、また、地球の資源を搾取し、最貧困層を疎外する経済システムを批判しているところから、明白に前教皇フランシスコの路線を引き継ぐものと思われる。
前教皇フランシスコに心引かれるものが大きかった者として、現教皇に期待するものが大きい。私としては特に「ラウダート・シ」継続してほしいと願っている。
教皇フランシスコご逝去 (4.26)
教皇フランシスコが亡くなられた。享年88歳である。死因は心不全とのこと。ご冥福を祈らずにはいられない。
教皇の御訪日の時は、健康上の理由で教皇ミサに参加できなかったのが残念であるが、しかし、回勅や勧告等の出版物を通して、大きな影響を受けた。その中でも特に、回勅ラウダート・シは私に大きな影響を与えてくれた。この回勅が出された2015年当時は、まだ信州の山奥で農業をしていたときで、様々な面で支えとなってくれた回勅である。
その二年後、75歳という体力の限界を感じ、農業を閉じ、大阪へと異動となったが、ラウダート・シは20年の農業生活の意義を確認できた回勅であった。それだけに教皇の死は一抹の悲しみがあったが、弱い立場の人々や貧しい人たちに対する配慮や言及を通して、私たちに大きな愛と勇気を残してくださったことを思うと深い感謝に包まれるのである。
ウクライナ、あれから3年 (2.27)
もう、あれから2年も過ぎたのか。
平和な世界で、のほほーんと気楽で平和ぼけした隠居生活を送っている自分にとって、3年はあっと言う間の早さで、それとともに、ウクライナのことは自分の中で日々薄らいでいきました。兵士や一般市民も生命の危機と隣り合わせ、恐怖とひもじい思いにさいなまれながらの3年だったはずです。
思い起こせば、3年前の灰の水曜日の一週間前だったと思いますが、ロシアがウクライナに侵攻した、というニュースが飛び込んできました。私には、えーッ、なんで?という反応しかありませんでした。その時は、まだロシアとウクライナとの長い歴史的、地勢的な関係などまったくの無知だったからです。それでもロシアの一方的な侵攻と武器による平和の破壊は許すことができず、灰の水曜日の後の日曜日、つまり四旬節の6回の日曜日毎に、私のいる修道院からさほど遠くないロシア大使館前で抗議行動をしようと思い立ちました。
段ボールに青と黄色のウクライナの国旗の上に”NO WAR”と書いたプラカードを首からぶら下げ、警察が決めた抗議者用の場所で無言で二時間立っている、というものでした。残念ながら、3回目の日曜日は持病の膝が痛くなり、立つことができないため休みましたが、なんとか5回立つことができました。
5回立っていて感じたのは、「自分の無力さから来るむなしさ」でした。そのことについては「信仰雑話」の「むなしさとの闘い」をご覧ください。-
無力でもいい。無駄でもいい。今、自分にできることといえば、このようなことしかない。
それにしても、トランプさんがアメリカの大統領になってから、なぜか状況が複雑になってきました。ウクライナとロシアの間に、どのようにして戦争終結と平和がもたらされるのか見当がつかなくなりました。どうなるのでしょうか。
風邪にやられました (2.17)
正月明け早々、風邪にやられました。
1月13日、朝、目が覚めると、すごい寒気と気分が悪い。体温を測ってみると8度9分ある。その時、猛威を振るっていたインフルエンザーが頭をよぎっていきました。
今は熱もすっかり引いてはいるのですが、咳がまだ引かず、すっきりした気分にはなっていません。
それにしても、二年間も苦しめられたコロナワクチンの副作用と同じ、疲労感と倦怠感にはいささかうんざりさせられます。
寒さがまたぶり返しそうですが、それでも春の足音が近づいてくるが聞こえます。春の訪れがうれしい。百姓時代を思い出します。