日々のうつろい 日々の思ったこと、感じたことをつれづれに
今年の復活祭 (4.14)
早いもので、もう復活祭も一週間になろうとしている。昨年の灰の水曜日の数日前から始まっているロシアのウクライナ侵略による戦いがますます激しくなり、犠牲者もますます多くなってきていることに痛みを感じ、また、コロナワクチンの後遺症に苦しめられ、体調もすっきりしないものあり、喜びと希望の祝日であるはずのご復活祭もすっきりしないものがあった。
しかし、げんきん(目先の利害によって、態度や主張などをガラッと変えること)なもので、5年前に大阪日赤で前立腺がんの摘出を受け、その後、三ヶ月毎に再発していないかどうかがん検診を受けてきたが、復活祭の4日前に、広尾の日赤で、「完治です。検診はこれで終わりにします」といわれ、また、復活祭の二日後には、同じ日赤の皮膚科で、左足にできた原因不明の痛みとかゆみを伴うあざの治療も回復に向かい、これも治療完了ということになった。
また、昨日は青梅丘陵の険しい山奥のような青梅の森を杖をつきながら三時間ほど歩き、今日、二週間に一度の膝の治療に整形外科に行くとき、いつもは外出時には杖が必要だったのに、今日は杖なしで歩くことができた。これには医者も喜んでくれた。
復活祭を挟んでわずか一週間の間に三件もの病状の回復は、復活の水曜日のミサで読まれる使徒たちの宣教・3章1節からの、足の不自由な男性が使徒たちに癒やされた喜びに少しだけ通じるものがあるのではないかと思っている。
というわけで、今年もHAPPY EASTERです。
ウクライナと十字架 (4.3)
昨年の灰の水曜日の一週間前に始まったロシアによるウクライナ侵略。一年たった今も戦争は続いている。一人の男の野望のために数万人の兵士や市民がが死傷し、数十万人の市民が爆撃で家と生活を失っている。なんの意味も大義もない、ただただ悲惨な戦いである。
敬虔なクリスチャンならこれを十字架だというかもしれない。
「私に従いたい者は、自分の十字架を背負って私に従いなさい」とイエスはおっしゃっている。ウクライナのこの出来事は、イエスのおっしゃっている十字架なのだろうか。
イエスは人類を救うために十字架に登られた。しかし、このロシアとの戦いには人類の救いという顔はまったく見えてこない。これは十字架ではなく、地獄だ。十字架と地獄を混同していけない。