日々のうつろい              日々の思ったこと、感じたことをつれづれに



主のご復活 おめでとうございます   (4.5)
 二年続きの新型コロナ禍下でのご復活祭である。今年も隣のチャペルセンターの聖堂ではなく、修道院の小さな聖堂で聖なる三日間と復活祭の式が執り行われた。どこで、どのように執り行われようと重みは同じであるが、それでもやはり寂しさはある。
 生と死と復活という人間にとって最大の問題が、イエスという一人の存在を通して私たちに突きつけられてくるのが、この聖週間と復活である。イエスは十字架上の自分を通して、私たちに何を伝えようとされたのか。そして、そのイエスを復活させることによって、神は私たちに何を伝えようとされたのか。
 これに関しては「信仰雑話」の方をご覧いただくとして、現実の問題として、コロナ禍という災害が、世界中に大きな被害をもたらしている。コロナウイルスによって多くの人が命を失い、あるいは全快してもその後遺症に苦しみ、家庭崩壊、失業、店を失うなど、多くの人が苦しみあえいでいる。しかし、それらが新規感染者数とか今日の死者数という数字でしか現れされなく、しかもその数字に一喜一憂しているのである。日本のその数字は、北米や南米、インドやヨーロッパ諸国の数字と比較され、少ないことにホッとし、その苦しみは無視されていく。
 コロナ禍は私たちの心の底辺によどんでいるものをあぶり出してくれた。それは自分第一、利己主義、エゴイズムというものである。コロナに感染して人たちを自業自得として見下げ、差別する。たとえば、外国からマスクの着用率の高さが賞賛されているが、マスク着用の理由は、他人に移したくないというより、他人から移されたくない、というのが本音である。つまり人との関わりを絶っていくのがマスク着用に理由である。
 マスク着用によって煩わしい人間関係から解放され、自由になった感じがするのではないか。マスクが、今までとは違う世界を見せてくれたのだ。コロナが見せてくれた解放された世界、これも日本の文化なのか。

コロナ禍緊急事態宣言解除   (3.26)
 この21日に一都三県に出されていたコロナ禍による緊急事態宣言が解除され、これで日本中が解除されたことになる。一昨年末に中国から広がったコロナウイルスは、あっという間に全世界に広まっていった。今までに全世界でT億2千万人が感染し、280万人が犠牲となってる。日本でも46万人が感染し、9千人近い人が命を落としている。
 この新型コロナウイルスの報道で、新規感染者数や死者数に一喜一憂し、外国との比較に優越感を抱く、そのような自分がいるのは、自分ながらいささかなさけない。たしかに、数字は状況を知る重要なデータではあるが、人々の苦しみや悲しみは見えてこない。あまりにも数字が大きすぎて、その内容が見えないのだ。
 いつ終息するのか先が見えないコロナ禍という全世界的な出来事が、自分の中で判断停止になっている。どう理解し、どう受け止めるべきかが、わからなくなっているのである。感染したときの周囲の冷たい視線と差別、退院後も苦しめる後遺症、そして、死の間際に対面できなく、骨となって初めて会えるという残酷さ、等はいつの間にか数字の陰に隠されてしまい、私たちに訴えては来ない。
 あの東日本大震災の時がそうだった。脳の働きがストップして、その状況に対して言葉が出てこない。出てこないというより、言葉を失ってしまった。その状況に対して、全くの無力、自分の存在が無くなってしまったような自分だった。このコロナ禍は、日本の被害が世界的に見て少ないということもあって、東日本大震災のような強烈なショックと思考停止には襲われていないが、自分の心が苦しみや悲しみに鈍感になっていることが気がかりである。