むなしさとの闘い

2023.4.2


 2022年2月24日、突如としてロシアはウクライナの首都キーウに「ナチズムを成敗する、特別軍事作戦」との口実を持って攻め込んだ、なんの大義もない武力侵攻である。首都キーウの侵攻は失敗するも、東部4州を占拠し、ここにウクライナのロシアとの戦いが始まる。
 翌週3月2日は灰の水曜日で、46日間の四旬節、6回の日曜日がある。
 その第一四旬節日曜日から、午後に二時間、ウクライナの国旗に「戦争反対」のプラカード首に提げ、ロシア大使館の前に立った。膝の痛みで5回になったが、ロシア大使館の前に立って感じたのは、言い知れぬむなしさだった。なにも伝わらない、なにも受け入れられない、なにも変わらない、というむなしさ、自分のやっていることが全く意味がない、というむなしさである。ロシアとウクライナの争いの前に、自分の小ささ、弱さ、無力さを思い知らされ、打ちのめされてしまう。

 そのとき思う。
 イエスのゲッセマニでのあの苦しみ、そして、十字架上で感じたのはこのむなしではなかったの
か、と。

 イエスは、人類の幸せのため、救いのため、平和のために、ご自分お命を捧げようとされている。それがおん父のお望みであり、また、イエスの望みでもある。このためにこそ、おん子は神でありながら神であろうとはせず、人間になられ、いま十字架上で苦しみもだえている。
 これほど人間を思い、人間を愛しているのに、人間はそれを理解せず、また、理解しようともしない。そのような人間のために、十字架上で命をささげる意味はあるのだろうか。たとえ十字架上でいのちをささげても、この後、わずか二千年の間に、どれほどの命が戦いのために失われていったことか。数多くの戦争や内乱、、特に、アウシュビッツや広島、長崎の市民を巻き込んだ無差別殺戮、朝鮮戦争やベトナム戦争、そして、このロシアによるウクライナへの侵略。
 イエスは十字架の上で、このむなしさを感じなかったであろうか。自分のしている行為の無意味、むなしさを心が張り裂けんばかりに感じたはずである。
 十字架上でのあの叫び、「エリ、エリ、レマ、サバクタ二」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」はおん父に向けての叫びであると共に、人類に向けての叫びでもある。

 イエスはこのむなしさに、おん父への愛、人類への愛によって打ち勝っていった。

 「われ成せり」