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主よ、どこに?
(2025.1.9


                      −イエスを捜し求めて。− 

ハネ 1.38-39:41
  イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。
 彼(アンデレ)は、まず自分の兄弟シモンに会って、「私たちはメシアー『油を注がれた者』という意味ーに出会った」と言った。

 この箇所は、洗礼者ヨハネが二人の弟子に、イエスを「見よ、神の子羊だ」と紹介し、それで二人の弟子はイエスに従った、というところから始まる。そして、イエスに問いかけられ、それに答え、従って、そこに大きな出会いが生じる、といった箇所である。
 望む(求める)ー問いかけー応えー出会い、というパターンは、福音書の中で美しくも感動的な出会いとして語られている。ペトロや使徒たちと、マリア・マグダレナと、ザアカイと、マルタと、それに使途の宣教におけるパウロと、自分の人生が大きく変えられていく体験をすることになる。
  「先生、どこに泊まっておられるのですか」という問いかけは、場所的な好奇心というより、泊まっているところを通してイエスをより深く知りたいという望みからであろう。事実、そこに泊まって、語り合い、共に食事をすることによって、素晴らしい出会いがもたらされたのである。

 現代に生きる私たちは、このような体験が可能なのだろうか。福音のあのときは、イエスと弟子たちは顔と顔を付き合わせている。目の前にイエスが立っているのである。素晴らしい出会いがそこにある。当然だ。当たり前だ(と思う)。
 しかし、私たちにとって、弟子たちが体験したような体験は可能だとは思えない。イエスがそこにいないのだから。イエスがいない、イエスが見えない、イエスを感じない、イエスはどこ、イエスよ、どこにおられるのですか。
 「イエスよ、どこに泊まっておられるのですか?」 

 イエスは言われる。「わたしは代の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」(マタイ28:20)

 カトリック信徒にとってキリストと出会えるすばらしい場所がある。聖堂である。
 ミサがあれば、そこでイエスに出会える。ミサがなくても聖櫃の中に聖体の形でおられるイエスに出会うことはできる。しかし、それには深い信仰が必要であるが。
 ここで一つ問題が生じてくる。それは聖体が強調されるあまり、キリストとの出会いが教会内だけで、教会から一歩外に出ると、そこはキリストのいない世界になってしまったのである。
 これには、初代教会の時代から影響を及ぼしてきたプラトンとグノーシスの世界観が見て取れる。プラトンの精神と肉体という二元論にグノーシスの善と悪という二元論が合わさり、精神や霊魂は善、肉体や物質は悪という物質世界を軽視する世界観が教会の中で、現代に至るまで強い影響を及ぼしてきた。つまり、神の創造の軽視であり、それは現代の大きな問題となっている自然破壊や自然汚染にまで及んでいる。
 キリスト者にとって、この物質世界は信仰の対象とはなり得ないのである。
 
 神の創造を、私たちの信仰の中に取り戻すことが必要ではないだろうか。そのために、教皇フランシスコが、ラウダート・シで語っておられることが心に浸みる。
 「世界は、歓喜と賛美をもって観想されるべき喜ばしい神秘なのです。」(12)
 もちろん、「世界」とはこの物質世界を含んでのことである。

 ここで、私の体験を述べることにする。
 今から15年程前、山奥で農業をしていた頃、12月25日小教区の教会でクリスマスの日中のミサをしていた時のこと、福音はヨハネの福音1章のあのロゴスの賛歌である。私は、この箇所で、おおきなショック受けていた。

 「すべてのものは、み言葉によってできた。できたもので、み言葉によらずにできたものは、何一つなかった。」(ヨハネ1,3)

 私は長いこと「主よ、どこにおられますか」と尋ね求めてきた。頭ではわかる。教義として、教えとしては理解できる。しかし、自分の中にドンと落ちてくるものがない。つまり、首から下に落ちいてこないのである。結局、私はその答えを求めて、人間の原点、土と共に生きようと思った。55歳にして、百姓の道を選んだのである。
 神はこの問いに答えてくださった。いままで100回以上は耳にし、目にしてきたこの箇所が、その時初めて耳にしたかのように、私の心に落ちてきたのである。

 神はすべてのものを造られた。神はすべての被造物と共におられる。この一本の草、一本の花に神はおられる。この言い方は汎神論のように見えるかもしれないが、これは神という大海原に、被造物がドブンと浸っている状態を言っている。この大宇宙が神という海の中に、ドブンと浸かっているのだから。
 私達人間も同じ、神という海の中の魚が海に向かって、「海よ、どこにいるの?」と問いかけるのと同じである。神がご自身を隠しておられるのではない。私たちが神を見ようとしていないだけなのだ。
 神は世の終わりまで、私たちと共にいて下る。
 この人生、同行二人である

 「あなたは復活の栄光をもって
 すべての被造物の中に今日も生きておられます」
           (ラウダート・シ わたしたちの地球のための祈り)