万物は言によって成った


 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(ヨハネ1.1)
 この言は、初めに神と共にあった。(1.2)
 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは、何一つなかった。(1.3)
 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。(1.4)
 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(1.14)
 父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。(1.18)


 聖書を読んでいると、何十回、何百回と目にし耳にした言葉が、ある時、初めて聞いたかのような新鮮さと衝撃をもって心に響いてくることがある。
 私は高校生の時洗礼を受け、そろそろ50年になろうとしている。この間、上に挙げたヨハネ福音書の、いわゆる「み言葉の讃歌」といわれる箇所は、幾度となく目にし、耳にしてきた箇所である。ところが、昨年(2007年)のクリスマスに、3節と4節のわずか2行の聖句が、私の心に大きな衝撃とともにずっしりと入り込んできたのである。それは、今まで頭では理解し、他の人にもわかったつもりで語ってきた箇所が、言葉の理解というよりも感覚的な実感としての衝撃である。
そして、それは私にとって今年(2008年)の大きなテーマになった。

 聖書学者は、ヨハネ福音書のこの箇所を、イエスが神であることを三段論法で述べている序章のようなところである、という。つまり、言=神、言=イエス、故に、イエス=神、という三段論法である。
 私も今まで、この箇所をヨハネ(ヨハネ福音書が成立していったヨハネの教会の)の神学論として受け止めてきた。イエスは主(=神)キリストだ、という信仰告白として理解してきたのである。
 クリスマスには3回のミサが立てられる。夜半(聖書的には、一日は日没から始まる)のミサ、早朝のミサ、そして、日中のミサである。この日中のミサで、ヨハネ福音書の1章1節から18節までが朗読される。そのとき3節の言葉が、今までとは違う深みと重みをもって、心に響いてきたのである。

  「万物はイエスによって創られた」

 そう、私のまわりの一輪の花、一本の草、一匹の虫もイエスによって創られ、命を吹き込まれたのだ。白雪を被り連なる山々も、大地にうねる谷川もイエスに創られた。
 これは大きな発見、大きな喜びだった。
 山川草木、この大自然すべてをイエスが創られた、などと今の科学万能の時代に言おうものなら、狂信者扱いされるか、あるいは、今、アメリカ南部で力を持ち、ブッシュ大統領もそのメンバーだと言われている新保守主義(ネオコン)のキリスト教が展開している、旧約聖書の天地創造をそのまま受け入れる「創造論」と一緒にされるかもしれない。
 しかし、私は現代の進化論や宇宙論に関する書物を読むのは好きである。ホーキングの宇宙論など、読んで理解できるものではないが、それでも心躍るものがある。また、分子生物学の分野では、目を見張るような発見が次から次へとなされている。マクロの世界とミクロの世界が大きく広がり、深く探求されるようになってきている。ネオコンの「創造論」は、「創世記」の天地創造の方が宇宙の創生や進化の過程を科学的にうまく説明できるといわれても、私にとってとうてい受け入れることは出来ない。

 「万物はイエスによって創られた」という思いは、現代科学と矛盾するとか、受け入れられないとか、あるいは、科学を否定したり、非科学的な狂信的なものという次元のものではない。大地を耕し、大自然に触れて体験した一つの悟りの次元であり、これを説明するのはなかなか難しい。

 現代の神学は、「人間イエス」を追求する傾向が強い。「イエスは神である」と上から教条的に押しつけるのではなく、人間イエスがどのように神のみ旨を知り、どのようにしてそれを生きていったのか。また、どのように人間を愛し、神を愛したのか。イエスの人生の最後の数年間が人間性の面から追求されている、いわゆる、下からのキリスト論である。私たちはこの探求を通して、イエスが身近な存在、私と共に人生を歩んでくれる存在として、イエス理解に大きな貢献をしてくれた。
 それはまた、弱くみじめで罪深い私たち人間に、生きる勇気と力と喜びを与え、弱い立場にある小さくされた人々、貧しい人、差別されている人々、戦争や争いでうちひしがれている人々に人間の尊厳や命の尊さ、生きることのすばらしさを求めて連帯し、ともに正義を求めて戦う力を与えてくれた。
 しかし、いま世界は人類の存亡を揺るがしかねない重大危機を迎え、あらためて宗教界の意義が問われることとなった。それは環境問題で、それが政治や経済の主要問題となり、人類の死活問題としてとらえられるようになってきた。そのようなとき、キリスト教界のこの「時の徴」を読み取ることの出来ない鈍感さに、いささか危惧を感じるのである。
 今教会に求められているのは、抽象的なキリスト論ではなく、宇宙万物の創造主である現実に生きている具体的なキリストではないだろうか。
 
 この山奥で農業を初めて11年が過ぎようとしている。この11年の総決算が、この3節と4節の言葉であり、今まで農業をしてきたその意味がここにあったのだ。      
                                                 (2008.2.1)