1.熊野古道 中辺路(なかへち)
世界遺産、熊野古道の紀伊田辺・滝尻王子から熊野本宮大社にいたる中辺路(なかへち)を歩いてきた。山また山の熊野山塊の尾根筋を登り下りを繰り返すきつい山道で、千年以上にわたって歩かれてきた祈りの道である。
「紀伊山地の霊場と参詣道」が2004年に世界文化遺産に登録されたのは、次のような理由からだという。
「紀伊山地の熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)、高野山、吉野・大峰は、自然崇拝に根ざした神道、外来の仏教、その両者が結びついた修験道など多様な信仰形態を育んだ神仏の霊場であり、また、熊野参詣道、高野山町石道、大峰奥駆道などの参詣道(古道)とともに広範囲にわたり極めて良好に保全され、山岳・森林と一体となった「文化的景観」を形成している」
(和歌山県田辺市「熊野古道めぐり地図帳」より)
熊野参詣道(熊野古道)には、大阪から田辺までの紀伊路(世界遺産には入っていない)、田辺から海岸ぞいに那智までの大辺路、田辺から山中を巡る中辺路、高野山からの小辺路、伊勢からの伊勢路の5熊野古道、そして、熊野古道には入らないが吉野からの大峰奥駆道(修験道の道という特殊性のため世界遺産には入らなかった)がある。
この稿は旅行日記でも紀行文でもないので、熊野古道についての説明はここまでとする。
2.神仏習合の道
中辺路を歩いたと言っても、年齢、体力、時間の制約などでかなりの部分はバスを使わざるをえない。若い人たちのように踏破を目指すのではなく、祈りの道を体感するのが目的である。
熊野の霊域の入り口と言われる「滝尻王子」から歩き始める。滝尻王子から熊野本宮大社まで38km、19の王子がある。王子とは本宮大社の末社で、巡礼者の休憩所になっていた。
千年以上も前からこの参詣道は多くの皇族や貴族、一般庶民に歩き継がれてきた。この中辺路は決して楽な道ではない。何故このような山道を選び、歩いたのだろうか。
熊野本宮大社を目指して、険しい山道を歩いたその古人の心や信仰に少しでも触れてみたい、そのような思いでこの中辺路にチャレンジした。
熊野の山は深く険しい。山また山、山が重なり合っている。
日本古来の考えでは、神は高い山とか高い木のような高いところに下ると思われていた。おそらく、稲光が高いものに落ちることから来たものであろう。山は神が居られるところとなり、人間の力を越えた神秘と力を備えているものと考えられてきた。そのため、山そのものがご神体となったり、神社の境内には必ずと言っていいほど古い巨木の神木がある。
山の凜としたこのたたずまいは、神の臨在を感じさせ、また、数々の恵みをもたらす恵み深い神のおわすところである。稲を育てるための水、食料となる獣や山菜、燃料となり、建物の材料となる木材、等など。
人々にとって山に入るとは、神の懐に入っていくようなものだった。そのために人々は川で禊ぎをし、王子に詣でて山中に入っていった。
熊野三山とともに世界遺産に認定された高野山には、823年に弘法大師空海が入定(死ぬこと)している。空海は、それまでの仏教界で言われてきた死後に仏となるという来世成仏ではなく、修行や苦行によってこの世で仏になれるという即身成仏を説き、広く人々に広く受け入れられていった。
(右の写真は、高野山・根本大塔)
この修行や苦行によってこの世で成仏するという即身成仏は熊野詣に大きな影響を与え、とくに厳しい道中の中辺路に人々が押し寄せることとなった。楽な平坦な道では修行にならない。中辺路の厳しさには救い(成仏する)という大きな意味があるのである。
目指すは神々の鎮座する熊野本宮大社、そこへの道中は即身成仏、という神道と仏教の神仏習合が行われている。この神仏習合は奈良時代にはすでに始まり、平安時代に大きく発展する。鎌倉時代に創立された道元や親鸞、日蓮などの鎌倉仏教は神仏習合を否定し、仏教に純化していったが、真言・天台系の寺院は明治政府によって出された神仏分離令まで続いた。
神仏習合はこの分離令によって廃止され、神道は国家の保護の元、国家神道化されていったが、戦後、それほど顕著ではないものの、神仏習合が再び復活している。上の写真の本宮大社の神門の垂れ幕に、「神を父、仏を母としていただきて、熊野より興(おこ)さむ出発(たびたち)の時」との文言はそれを如実に表している。また、左の写真の熊野那智大社では密教の加持祈祷である護摩供養がなされている。
3.祈りの道
ここまで神仏習合を述べてきたのは、熊野古道が何故、これほどまでに人々を引きつけるのかその秘密を探るためである。我々日本人が持っている自然観の根底には、長い歴史のうちに刻み込まれた熊野参詣的な気持ちが秘められているのではないか、と思うからである。
人間はいろいろな悩みや苦しみ、心配や不安を抱えて生きている。どうしたらこれらから救われるのだろうか。こんな罪深い者が極楽へ行けるのだろうか。
このような人々の不安に対しての答えの一つが、熊野詣であった。現世における安寧と来世の確約、それを神々と仏が実現してくれる。それを神々がいる山の中を苦労してたどっていくことによって実現していく。そこには難しい教義や教えは不要である。地位や身分の高低、学問の有無、貧富の差、男女の性別など一切関係なく、誰でも受け入れてくれる。山とはそういうものである。
一千年前の人々を想起するのは難しい。しかし、彼らの足によって踏み磨かれてきた石畳は、十分に彼らを想起させてくれる。この上を歩いていると、人々の息吹が聞こえてきそうである。
それにしてもこれだけの立派な石畳があると言うことは、相当な数の人々が往来したことになる。しかし、全部がこのように広く立派な道ではない。人が一人通れるような狭い崖っぷちの道もある。このような道にさしかかったとき、天皇や上皇などの行列はどうしたのだろうかと、下々は考えてしまう。
この木の樹齢はそれほど経っていないと思われるが、人々の歩いた年月に熱いものを感じる。人と森のコラボレーション。木が自分の姿を見せてくれている。人はここまで自分をあからさまに見せることはできない。
木も倒れないように必死に根を地に張っている。けなげな姿である。
人の足によってつるつるになった石の道。この石の一つ一つに千年にわたる人々の思いや願いが込められている。この石を踏みしめながら、心の邪悪を取り去り、心が磨かれていくことを願ったことだろう。
王子跡にたたずむ石塔。ここでも多くの人が手を合わせていったであろう。なにを祈り、なにを願ったかはわからないが、おそらく旅の安全と残してきた家族への思いで手を合わせたのであろう。その願いと思いがこの石塔にずっしりと詰まっている。
熊野本宮大社から速玉大社、そして、那智大社への最後の中辺路、大門坂の石畳である。標高差100mを680mにわたって石畳の階段が続く。そしてさらに参詣門から大社までさらに数百段の階段。滝尻王子を出発して4日目、76歳の年齢と15kgのリュックサックがずっしりと重く感じる。膝もかなりガタが来ている。
必死の思いで那智大社に着いたら、上は観光客で一杯。 シャツもズボンも汗でびっしょり。悪態をつきたくなる。だめだ。仏には成れなかった。
4.目指す道
この4日間の中辺路巡りで思うのは、信仰の奥深さである。
苦労して必死の思いでたどり着いた熊野本宮大社。多くの人はここで涙するという。
西行が伊勢神宮の内宮で歌ったといわれる次のような歌がある。
「なにごとのおわしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」
わたしたちの中には日本の宗教観や歴史や自然が色濃く染みこんでいる。信仰しているものが違うとはいっても、やはり熊野古道を歩いてさまざまなものに感動していた。長い年月と人々の心である。
この熊野古道で得たもの、感じたものは別の稿でさらに深めてみたいと思っている。それほど大きく深かった。
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