土着化と根っこ


 最近、教会内であまり言われなくなりましたが、一時、「土着化」という言葉が大流行しました。広辞苑によると土着とは「その地に長く住むこと」、つまり、その土地の人間になることを言うようです。キリスト教では、ヨハネ福音書 1章14節の「み言葉は人間となり、我々の間に住むようになった」(フランシスコ会聖書研究所訳)とあるように、AはBとなり、Bの地に根付く、ことを意味しています。また、「受肉化」と言う言葉もよく使われましたが、これは同じヨハネ福音書の箇所の翻訳が「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(新共同訳)から来たもので、「土着化」も「受肉化」も神学的には少々の違いはあるのでしょうが、だいたい同じ意味と取っていいようです。
 土着化にしろ受肉化にしろ、具体的に日本におけるカトリック教会を例にとると、ヨーロッパ化した教会が日本独自の教会となり、日本の地に根付くことをいいます。しかし、その動きは実に遅々としたもので、カトリック教会のもっとも大切で中心的な儀式(典礼)が日本語になり、聖歌(賛美歌)が日本人よって作詞作曲されたことぐらいでしょうか。より根本的な信仰教義や信仰のあり方はまだまだヨーロッパからの移入の域を出てはいません。
 その理由はいろいろあるでしょうが、私は変化を嫌う保守的な体質から来ていると思っています。宗教は本来、きわめて革新的な性格を有していますが、権力者階級や有産階級、知識階級が中心となるにつけて現状を変えたくないという保守的なものへと変化していきました。宗教の世界では、宗教は本質的に幸せ、しかも、永遠の幸せを求めるものですが、経済的に豊かで社会的にも評価され、地位がある人はその幸せを失わないよう求めていきます。また、宗教者も豊かになり、宗派内での権力構造に組み込まれると、どうしても保守的になってしまいます。

 植物を見ると、土にしっかりと根付いているのは根っこです。根は土中に広く深く入り込み、土からの水と養分を吸い上げ、茎を通して葉や花に供給し、実を着けていきます。根は一生を土の中で過ごし、花や実のような見栄えがよく格好いいところはありませんし、評価されることもありません。しかし、根がなければ植物は花を咲かせることも実を着けることも出来ないのです。土着化とはそういうもので、土着化とは根になることです。
 みな、花や実になることを望むけれど、根っこになることを望む人はまずいません。そのうえ、根っこであることが正当に評価されず、これが土着化を妨げているもっとも大きな妨げです。
 根を張るといっても地表に近いところだけに根を張ってもだめで、地の下の方に根を伸ばしていかなければなりません。とかく土着化というと昔の貴族や武士階級、大商人が育ててきた文化や芸術に目がいきがちですが、このような上層社会の文化にだけ目をとめていたのでは本当の土着化は育ちません。雨風にも負けないような頑丈なものを育てるためには、もっと下の方の世界に根を張り、そこから養分を吸い上げていかなければならないからです。ですから、日本社会の労働者社会、農漁村、山村にまで根を張り、伸ばしていかなければ土着化はお題目だけになってしまいます。
 1980年代に、フィリピンでは「グラスツール・ムーヴメント」つまり「草の根運動」が盛んになりました。これは当時盛んに言われていた「解放の神学」のフィリピン版で、フィリピン社会を土台で支えている農漁民やスラムの人々が連帯し、そこから改革していこうという運動でした。その運動はマルコス独裁政権を倒す中心的な役割を担った「ピープルパワー」の根底となり、社会を変える中心的な力となっていきました。
 私はこのとき、根っこまで降りていく教会の底力を見せつけられた思いがしたものです。残念ながら、いまの日本の教会にはこれほどの力も生命力も見つけだせません。本当に残念ですが、それでも、全くないわけではありません。大阪の釜ヶ崎、東京の山谷、川崎の労働者街、などでがんばっている人たちもいます。その動きがもっと、農漁村や山村にまで広がってほしい、と願っています。