神の近くに生きる


  先日、三重県に行ったついでにちょっと足を延ばし、伊勢神宮の外宮に行って来た。ここは豊受大神宮とも言われ、農業の神様を祀っている。私の住んでいるところでは、神主さんが伊勢系とあって、伊勢と縁が深いが、実際には伊勢系とか出雲系とかはあまり関係ないようである。けっこう、私の部落では出雲系の神も祀られている。
 伊勢神宮外宮では参拝客や観光客の数は少なく、静かな境内である。杉の大木がまわりを圧倒し、玉砂利を踏みしめる足音に日本人の魂の琴線に触れる思いがする。信ずる宗教は異なっていても、心の奥底では共鳴し合うものがある。
 豊受の神を祀っている本宮は本殿と拝殿の間に二つの建物があり、拝殿には奥が見えないように薄い幕が垂れている。なぜ、神と人間の間にこのように距離を設けるのだろうか、両者の間を引き離せば引き離すほどありがたさが増すのかな、などと勝手に想像する。
 神と人間を引き離す、これは神官が己の権威を高めるために画策したことではないか。もし、民衆と神が直接接していたら神官は必要なくなってしまう。本来、神と人間は直接接して生きているはずである。庶民、とくに農民の間では、神を肌に感じながら生きている。それでは困るのである。
 
 人間は畑を耕し、種をまくだけ、あとは、大自然が太陽や水の恵みによって成長させてくれる。そこには人知を越えた不思議な力が介在するのである。どのような神か神学的、哲学的にはわからなくても、そこに神の力を感じて生きている。わからないから、とりあえず、太陽を神とし、水を、大地を神とする。人間の一生をはるかに超えて生き続ける巨木を神とし、生物を威圧するような巨岩を神とする。そこには、学者たちが頭をひねって生み出した難しい神の存在論などは無用の長物である。
 それを汎神論などというのは正しくない。理解しがたい神、人知を越えた神を、とりあえずわかるまでの間、神を感じさせるものを神のかたどりとして崇拝しているのではないかと思っている。

 ヨーロッパ・キリスト教は長い年月をかけて、神を追い求めてきた。とくに、中世以降、イスラム圏を通してギリシャ哲学を取り入れ、大きく神学的・哲学的に発展してきた。しかし、学問的に発展すればするほど民衆から神は遠ざかり、いまや欧米や日本のキリスト教は惨憺たる有様である。

 神は死んだのか。神はもう必要ではないのか。

 いまは秋。刈り入れの時である。田んぼでは稲がたわわに実り、稲穂を垂れている。今年は7月の低温と長雨で不作が心配されたが、8月以降の高温続きでなんとか取り戻した。今週の末(9月18日)から平年より一週間遅れで刈り入れをする予定である。
 今日、稲の一株を刈り、神様に捧げた。田んぼは重労働の連日である。しかし、人間のすることといえばただ、田んぼを起こして苗を植え、草取りをするぐらいである。それがどれほど重労働であっても、たいしたことではない。神の恵みと大自然の力が、稲を育て、成長させ、実を結ばせるのである。
 この神と大自然への感謝を形で表すには、そこから採れたものを捧げることしかない。
 生活の場で、神様に捧げものをする、という習慣はいつの間にかなくなったしまっていた。かつてはミサの時、田畑で採れたものを奉げていた。いまは、金で代用している、と説明されている。なんという神と人間の乾いた関係か。
 神と生活の場は違う世界。関係なくはないが遠い存在になっていた。生活の場で神とのつながりがない。これは多くのカトリック信者が抱いている感情ではないだろうか。
 たとえば、週一回配送されるカトリック新聞を例にとると、バチカンや司教や教会関係の出来事などの掲載が多い。しかし、そこには生活の臭いがしない。庶民の汗や涙がまるでないのだ。ヒエラルキーという三角形の階層の上層部分のニュースしかない。これがカトリックの信仰の現状である。
 日常生活で、神と我々人間の生活を結びつけるものにミサがある。毎週、日曜日に教会でミサに与り、生きる力をいただくのであるが、それが日々の生活と結びついてこない。神の世界と人間の世界とに断絶があるのである。

 農村に住んでいて気づくことは、まず、最初に生活があることである。田畑を耕し、水を引き、できた農作物を火によって調理する。そこに神の大きな恵みを感じ、田畑の神、水の神、火の神を敬い祀ることになる。そこでは、まず生活があり、そこから神に感謝し、神を祀る行為が出てくる。神があって生活があるのではなく、生活があって神があるのである。
 キリスト教では、まず神がいて、人間がいて、生活がある。しかし、現代社会において、神と生活は結びつかなくなっている。それに反し、農村では、まず生活があり、人間があり、そして、神がいる。
 神を神学的に深く追求しながら神を感じないキリスト教と、神のことはくわしくはわからないが神を身近に感じなが生きる農民と、どちらが神に近いだろうか。
 理知的になりすぎたキリスト教の信仰よりも、生活からにじみ出てくる農民の信仰の方が、神に近いのではないかと思えてくる今日この頃である。

 パスカルがパンセの中で述べている「哲学者の神、神学者の神」ではなく、「生きた私たちの神」を私たちの生活の場に取り戻すために、いろいろ模索していくのもまた信仰の道である。