生命のきらめき


 ただいま、春真っ盛り、といったところです。春の農作業は今年一年の出来を左右する大切なときですが、それだけにいろいろと夢も広がり、それこそ、捕らぬ狸の皮算用を楽しんでいます。 
 春夏秋冬、それぞれに固有の美しさがありますが、とくに春の輝きには特別なものがあります。厳しい冬の寒さを乗り越えた草花が、次から次へと生命の輝きを見せていきます。それとともに、蛙やモグラ、ヤモリやトカゲ、蛇などの小動物、ミツバチやチョウなどの昆虫、そして、ウグイスやツグミなどの小鳥の活動も盛んになります。まるで、生きとし生けるものの生命の大合唱のようなきらめきです。
 また、人間の社会も、入園、入学、進級、卒業、就職と、子供や若い人々にとって生命と希望にあふれた大きな一歩を踏み出すのも春です。

 これらの生命あふれる姿は、神秘と崇高を感じさせます。毎日を生きる中で、このいのちとの深い出会いとかかわりこそ、わたしたちに生きる意味を教え、生きていく喜びと力を与えてくれます。宗教とは本来、いのちとのふれあいを実現してくれるものです。神のいのちとのふれあい、人と人とのいのちのふれあい、そして、この大自然のいのちとのふれあい。神がくださった生命を、互いに分かち合う、これがこの世界の姿です。

 しかし、人類社会が文明化されるに従って神と人間の関係が、生命への賛美と感謝から救いへの探求へと変わってきました。それは時代とともに、戦争の多発や流行病の蔓延等によって死が日常化し、死への不安が増大したことと、運命への不可抗力やあきらめがあったからです。人間はどうやってこの苦しみや不幸から解放されるのか。また、人間は避けることのできない死をどのように迎え、どのように乗り越えていくことができるのか。それは一生にわたる大きな問題でした。
 人類は今日に至るまで、救いを得て天国や極楽にいけるよう、難行苦行をし、あるいは、長い祈りをし、座禅を組み、巡礼をし、布施や慈善、善業を行うなどの涙ぐましいほどの努力をしてきました。宗教は、この救いと来世を探し求めている人間への応えとして、大きな役割を果たしてきました。しかし、ヨーロッパ・キリスト教やイスラム教、日本の浄土真宗や日蓮宗に見られるように、救いと来世を強調するあまり、この生命や生きるということがどこかに置き忘れられてきました。
 
 マタイ、マルコ、ルカの3福音書(共観福音書)は、この救いと永遠の生命がイエスによってもたらされたこと、つまり、神はイエスの十字架上の死によって人類に救いを、そして、イエスを復活させることによって永遠の生命を約策してくださったことをを力強く述べています。
 しかし、ヨハネ福音書やパウロの書簡では、救いと永遠の生命はもちろんですが、その向こうにある生きるということ、いのちが強調されています。救いの成就と永遠の生命は人間の最終的な目的ではなく、安心して神から与えられた目的へ向かって歩んでいく第一歩なのです。私たち人間の最終目的は救いや死後の世界を心配することなく、せいいっぱい今を生きることによって、神が私を創造してくださった意味、すなわち、私の完成へと生きていくことにあります。
 それでは、私の完成とは一体何なのでしょうか。
 パウロはエフェソ書の第一章で、神の秘められた計画(神の御心)を語っていますが、それは
 「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」(1:10)
 すべてもの(人間だけではない)がキリストにおいて一つになる、それが完成だというのです。わかったようなわからないような、結局わからないですね。聖書もこれ以上のことは言っておりません。人類が長い歴史を通して探し求めていくことなのでしょう。そういう意味で、本当の完成はまだまだ先のようです。
 
 それはさておき、永遠の昔から永遠の未来にわたって永遠に生きるお方、生そのものである神が、人間をご自分に似せてお造りになった、と旧約聖書は語っています。人間は生きるものとして造られ、生きてこそ人間なのです。生きているからこそ、食べたり飲んだり、仕事をしたり、遊んだり、寝たりします。うれしいこともあれば、いやなこと、つらいこともあります。天にも昇るような幸せなときもあれば、死んでしまいたくなるような苦しいときもあります。すべてこれ、生きているからこそ味わう事柄です。これら一つ一つが生命を生きていることであり、一つ一つが信仰生活であり、一つ一つが人生である、それが生命のきらめきなのでしょうね。

 心臓の鼓動一つ一つが神への感謝であり、呼吸の一つ一つが神への祈りです。食べることが信仰行為なら、働くことも休むことも信仰行為です。神がくださった生命を生きる、これが信仰生活なのです。