自然災害の苦しみ


 先のたびかさなる台風や新潟県中越地震で多くの人の命が奪われ、負傷し、家を破壊され、田畑が甚大な被害を受けた。災害に遭われた人々の悲しみ、落胆はいかばかりなものであろうか。一日も早い復興と回復、そして、なくなられた方のご冥福を祈るものである。
 自然災害がもたらす苦しみと不幸は、相手がこの大自然だけに怒りや恨みの持って行き場のない、どうしようもならない気分にさせる。神をのろい、災害をもたらした自然を恨むか、定め、運命とあきらめるしかない。もしかしたら、神はあえて人間から恨まれるような役割を引き受けてくださっているのかもしれない。
 自然災害の多いこの日本では、古来より自然災害を、神のたたりや怒り、罰として、また、避けることのできない運命として受け入れてきた。一木一草にも神が宿る、と考えてきた日本の精神風土では、自然災害はその神々の怒りと考えられ、今も宮崎駿のアニメ作品に見られるように日本人の心の中に深く根付いている。

 キリスト教において自然災害は、旧約時代では人間の罪の結果としてとらえられていたが、福音書ではなぜかほとんど言及されていない。イエスは自然災害ではないが、説明のつかない不条理な苦しみについて次のように語っている。
 「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』 イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』」(ヨハネ 9.1-41)
 生まれつき目が見えないという説明のつかない現実に対して、その当時、ユダヤ社会で信じられていたような、あるいは、いまでもある新興宗教がいっているような、両親や先祖、または本人が犯した罪の結果ではなく、ましてや、神の罰とかたたりでもない。イエスはその原因についてなにも説明をしていないのである。
 イエスにとって原因の究明もさることながら、それ以上に、現にいま苦しんでいる人に係わり、救っていくことのほうが大切であった。原因究明は人類の進歩にゆだねたのだと思う。ただし、人間をもっとも苦しめている人間に起因する不幸については、聖書で「罪」という言葉で表現している人間のエゴイズムこそが根本的な原因であり、その克服には、「愛する」ことしかないことをご自分の生命をもって証しされた。

 人間の力の及ばない自然災害の原因の一端に、人間のエゴイズムがあることは確かであるが、だからといって地震や台風を人間が引き起こすことなどできるものではない。本人の罪とか先祖のたたりが自然災害を引き起こすなどというのは、人間が地球を操作できるという思い上がりでしかないのである。
 イエスは人の不幸を食い物にする宗教を強く批判しているが、同時に、その苦しみの中で、神も共にその苦しみを担ってくださっていることを述べている。 いま、神の業は人を通して現れることが多い。さまざまな人たちが共に助け支え合い、共にその苦しみを担いあおうとするその姿に、インマヌエル(あなたとともにいる)の神のみ業を見る思いがする。 今回の自然災害によって、神は人々を通してどのように働かれるのだろうか。人々の働きの中に神のみ業を見いだしていく信仰が、私たちに求められている。