被造物は私の兄弟?
イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。
しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」 そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」 (マタイ 12.46-50) 先日のサッカーワールドカップを見ていて、サポーターたちのあの熱狂的な姿を見ていて、つくづく人間は一人では生きていけない存在だということを見せつけられた思いがした。同じTシャツを着たり、国旗を顔に描いたりとさまざまではあるが、みな同じ行動を取ることによって連帯感や一体感を味わっていたのであろう。雑踏の中に身を置く、あの安心感かもしれない。 過疎の山間(やまあい)では、そのような人間同士の一体感や安心感など望むべくもないが、それでも、テレビを通して思いを通わせることが出来るのは楽しいことである。 仲間や友人、同僚と兄弟とは違う。 イエスがここで言う兄弟とは、仲間や友人というより、友人や仲間以上の存在である。イエスの言う兄弟姉妹は、血のつながりや家族という範疇を超えて、自分にとって最も近い存在である。 私たち東洋人にとって、家族や血のつながりは人間関係のもっとも根底をなすもので、仲間や友人とは比較にならない強固なものである。もっとも最近は、核家族や家族の崩壊という社会現象を通し、かつてのような強固なつながりはかなり薄くなってきているようであるが、それでも、家族の絆はまだまだ強い。 聖書の時代のイスラエルにおいても、族長制度に見られるように家族の絆は強い。マタイとルカには、アブラハムからイエスにいたる系図が、延々と述べられ、人間を評価するときでも、誰々の子、という言い方がなされ、イエスも「(大工の)ヨセフの子」(ルカ 4.22)と呼ばれていた。このような家族制度の強い中で、イエスはあえて、弟子たちを自分の兄弟、姉妹、母と呼んでいる。 イエスにとって兄弟姉妹、親とは血のつながりや系図ではなく、ただ、「神の御心を行う」人という、神の御心におけるつながりである。神でつながっている、というのでもない。イエスにとって真のつながりとは心と心のつながりなのである。夫婦、親子、兄弟姉妹の心がバラバラ、という家族もいる反面、心を共有できる友もいる。心がつながっているか、心の思いでつながっているか、が大切なのである。私とあなたの心が神の心でつながっている、それが兄弟、姉妹の条件とイエスは言う。 ところで、神の御心を行っているのは、ただ、人間だけであろうか。神が造られ、神が「善い」とされたこの被造物界もまた、意識はしていなくても神の御心を生きている。被造物界は神の御心を行うように創造されているからである。イエスが言われる兄弟姉妹は、人間だけをさして言われたのではないと思う。イエスにとって、神の御心を行うものはみな、人間であろうと人間以外のものであろうと兄弟だ、とはいえないだろうか。神から造られた、という点では人間もほかの被造物も同じ部類にはいる。人間も被造物の一員なのである。 アシジの聖フランシスコが被造物を私の兄弟・姉妹と呼ぶとき(「太陽の賛歌」)、それは同じ被造物として、同じ造り主である神に愛されているものの深いつながりを思ったからではないだろうか。キリスト教では被造物を人間と同じものと見るのは異端扱いされる。なぜなら、人間は神に似せて造られたものであり、魂を持っているから、ほかの被造物と違う存在だ、と考えるからである。 「神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ 御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。」(詩篇 8.6-7) 人間は被造物でありながら被造物以上のもの、というよりも、神に近い被造物である。だから、人間を被造物と同列におくことは、神に対する冒涜であり、人間を動物にまでおとしめることになる、というのがキリスト教の考えである。 アシジの聖フランシスコが被造物を兄弟姉妹と呼んだことについて、後世の人々は彼が異端者扱いされるのを避けるため、それを彼が貧しさを「貴女(つまり、私の恋人、の意)清貧」と呼んだように、詩的表現とか文学的表現であると解釈してしまった。現代でもそれは同じで、そのおかげでアシジの聖フランシスコは傷(?)が付かずにいる。しかし、その反面、彼が言わんとした人間と被造物の関係はまったく骨抜きにされ、「太陽の賛歌」はロマンティックな童話の世界にされてしまった。 私は、アシジの聖フランシスコがそのような空想家、あるいは、単なるロマンチストだったとは思えない。それどころか、彼は非常に現実主義者だった。だからこそ、彼は見て触れるということに非常にこだわったのである。実物を持ってイエス誕生の場面を再現したグレッチオの馬糟やイエスの十字架上の五つの傷を身をもって体現した聖痕は、それを物語っている。 彼の現実主義は、フランシスコ会の修道者たちによってイギリスの経験主義などの科学や哲学にも引き継がれていったといわれているが、フランシスコは抽象的な信仰ではなく、具体的な信仰、つまり、{福音を生きる」信仰を実践していった。その彼が被造物を兄弟・姉妹と呼ぶとき、心からそのように思い、心からその被造物たちを慈しんだ、と私は思っている。 アシジの聖フランシスコが被造物を兄弟・姉妹と呼ぶのは、人間も被造物の一員という観点からである。神によって造られた、という意味では、人間は他の被造物と同じ立場にある。人間には理性や知性があり、魂があるといっても、人間は被造物でしかない。フランシスコのあの謙虚さの源は、実はここにあるのではないかと思っている。人間の真実の姿からこそ、このような人間や他の被造物を愛し、慈しまれる神の偉大な姿が見えてくる。「太陽の賛歌」は被造物への賛歌であるとともに、それらをお造りになった神への賛歌でもある。 フランシスコが被造物を兄弟姉妹と呼ぶのは、「太陽の賛歌」にあるように、まず、人間が宇宙を構成している要素と同じものによって構成されていることであり(創世記では、人間は土(アダム)によって造られたとある)、その被造物たちによって人間は育まれ、守られ、慈しまれているからである。人間はいくら偉そうなことを言っても、結局は、さまざまな被造物によって生かされているのである。彼らなしには一瞬たりとも生きてはいけない。私たちはそれをすっかり忘れてしまっている。人間同士が戦い殺し合い、地位を競い合い、財産の有無で差別し合っているそんな姿に、人間の傲慢と惨めさ、そして、被造物たちのいじましさをフランシスコは見ていったのであろう。 もっとも、ここで北米南部で勢力を持っている、旧約聖書の創世記を科学的論拠によって事実として信じているプロテスタント保守派の「創造論」のようなことを言っているのではない。この「創造論は」一つの説として肯定も否定もしないが、人間至上、あるいは、白人至上主義に陥る危険性のある説ではある。フランシスコの「太陽の賛歌」はあくまでも13世紀ヨーロッパの世界観に基づいていて、現代の世界観と同列におくことは出来ない。しかし、彼が言わんとしていることは科学的な論議をすることではなく、人間の存在とはなにかを問うことであった。 神なき生命科学は、DNAの解明によって生命の発生と維持、及び、持続には神は必要ない、と言っているが、それでもDNAのあの見事なまでの法則性を神なしに説明することは難しい。それはともかく、フランシスコのように、まず、現実の事実を事実として認め、受け入れていくことから始めるべきである。現代のキリスト教は、生命科学や宇宙論の研究成果にたいして、見て見ぬ振りをしている。キリスト教神学では科学に対抗できないからである。しかし、その対抗しようという姿勢こそが問題で、「神なき科学」と「科学なき神」というヨーロッパの二元論的精神構造こそ、前近代的なものとして乗り越えなければならないものである。(これについては「太陽の賛歌・解説」と「エコロジー講座」を参照) 中世の異端裁判でもあるまいし、こんなことを言ったら異端だとか、カトリックの伝統的な神学に反しているとか言っている限り、ヨーロッパが陥ってしまった二元論のアリ地獄から抜け出せない。この点にたいして、聖書学者や神学者たちの怠慢は明らかである。 |