キリスト教の農村化
正月は宗教に関係なく、ある種のすがすがしさと今年こそはという希望を感じさせてくれる特別な時である。日本人の心の奥深くにしみこんでいる原体験なのかもしれない。
正月になると、最近ではデパートやスーパー、商店や銀行の玄関にしかお目にかかれなくなってしまったが、門松が正月気分を盛り上げてくれる。門松も地方によっていろいろな形式があるらしいが、一般的なのは右のカットにあるような形のものである。 カットにあるような門松は三本の竹を立てているが、神道では棒状のようなものの先端に神の霊が下ると考えられてきた。神社境内の大木や地鎮祭の時に土を盛り上げ、そこに棒を立てるのもその意味がある。棒だけでは質素すぎるのか布や紙が巻かれ、後世それに技巧がなされ、ひらひらの紙に変わってくる。神主がお祓いに用いるのも棒に意味があり、紙は付属品である。布や紙を棒に付けるのは財物を捧げるという意味があり、古代では布や紙は高価な財物であったようだ。(柳田国男編「民俗学辞典」 東京堂出版) 門松は神がこられる場所として、この家にいつも神のご加護がありますようにと、家の玄関口や門のところに祀られたのであろう。私はこの門松を見るたびに、教会でも飾るといいのに、と思っている。あの三本の竹は三位一体の神のシンボルであると考えるなら、教会にぴったりである。松や竹の緑はカトリックの典礼で希望を現す色で、普通の日曜日では緑の祭服が多い。神のご加護がありますように、というのはキリスト者としても同じ気持ちである。 ヨーロッパから入ってきたキリスト教は、土着の信仰を取り入れるのに非常に臆病であった。信仰に反するとか、異端になってしまう、という意識が強いのはヨーロッパ人の宣教師では当然かもしれないが、日本人まで臆病になっている。たとえば、クリスマスはもともとローマ神話の光の神の行事を取り入れたものである。キャンドルやイルミネーションはその名残であり、ツリーやサンタクロース(聖ニコラスは実在の人物ではあるが、トナカイに乗っている赤い服の人)は北欧神話からきたものである。 欧米からきたものなら無批判に受け入れ、日本の物ならたとえ意味があったにしても受け入れることが出来ない。キリスト教の信仰がまだ自分の中で消化されていないからであろう。 私の住んでいる部落では正月の三日に、神主を招いて一年の無病息災と家庭の安泰、そして、農作物の豊作を祈念する。そして、各家庭に3本の御幣が配られる。家と火と水の神々への奉納物である。家は家族が安全に過ごし、子孫繁栄の場所であり、火は料理や暖房になくてはならない大切なものであるが、同時に、火事は消火設備の整っていなかった昔にとっては、もっとも大きな災害の一つである。水は農家にとって、今年一年飢えずにいられるかどうか生命を左右するものである。 キリスト教では、このような信仰をアニミズム(すべてのものに霊が宿っているとする自然崇拝)として低次元のものとしてみているが、生活から遊離した抽象的な祈りが多いキリスト教が次元が高いとも思われない。このように、生活から遊離しているのは、生活の心配がない聖職者や貴族、金持ちたちが、教会の中心を占めていたからであろう。 キリスト教が生活に密着した信仰を取り戻すためには、生活を祈るようにならなければならない。家族の安寧を願い、無病息災を祈る心を農村の人々から学ぶことも必要だろう。 1992年、ノーベル平和賞を受賞したグアテマラの先住民族である女性のリゴベルタ・メンチュウさんは、彼女の自叙伝の中で語っている。 「カトリックを信仰するということは、一つの条件とひきかえに自分たちの文化を捨てることではありません。。。カトリックの信仰も、信者としての義務も、私たちの本来の文化の中に吸収していきます。」(『私の名はリゴベルタ・メンチュウ』より) グアテマラは1524年にスペインに征服され、カトリックの信仰を強要されたが、マヤ民族は自分たちの神々の名を聖人の名に重ね、カトリックの信仰を自分たちのものにしてきたという。まるで、日本の隠れキリシタンのようである。マヤ民族はいくつもの部族に別れていて、それぞれが独自の文化と方言をもち、そのために各部族毎のアイデンティティを保ってきた。(以上、岩波ブックレット 「先住民族女性 リゴベルタ・メンチュウの挑戦」より) 今、日本の都市で、独自の文化はなかなか生まれてこない。グローバルな音楽やファッション、建築や美術は秀でたものが生まれてきているが、その土地独自のものはあまり見あたらない。元来、都市というものは希薄性が特徴である。都市の中で、ヨーロッパ的であることで存在意義を示そうとでもしているかのような日本のカトリックが、その土地の文化に根ざした本当の意味で人々の宗教になれるかははなはだ疑問である。 日本風なものの言い方で、泥臭いとか土臭いカトリックは無理なのだろうか。土着といいながら、いまだに土から遊離し、あまりに都市的でヨーロッパ的な、気位の高い現状では、泥にまみれることなど望むべくもないのかもしれない。 |