この正月に、かなり以前のものになるが、ミュージカルの名作「屋根の上のバイオリン弾き」のDVDを借りてきて、パソコンで見て過ごした。
この映画は、ロシア帝政時代のウクライナ地方に住む、ユダヤ教徒の素朴な農民一家を描いたものだが、頑固なまでに宗教的な伝統を固守する両親と、それに反発する娘たち、そして、最後には政府の退去命令で村を追われていくところで終わっている。久しぶりに、見終わったあとで深い感動を覚えた映画だった。
時間が止まったように見える農民の生活。それでも季節は巡り、時は流れ、確実に新しい時代へとと流れていく。その時の流れの中で、農民たちの神への感謝と神の加護を願う深い信仰の息づかいが聞こえてくる。
長女の結婚をめぐり、ユダヤ人社会の伝統と慣習から見合い結婚を押し進める両親と、貧しいけど実直な青年を愛する娘との駆け引きも、農村社会における親と子の意識のずれと、新しい時代の到来を感じさせる。念願かなった長女の結婚式の時、両親が歌う「Sun rises、Sun sets」(陽は昇り、陽は沈む)はそのような彼らの人生を映し出している。
「陽は昇り、陽は沈み 日々は流れ過ぎる
苗は一夜で花になり みるみる花開く
陽は昇り、陽は沈み 歳月は飛び過ぎる
季節は移り変わる 喜びと涙とともに」
この美しいメロディーの歌は、気がつかないうちに幼い娘が少女となり、乙女となり、結婚して妻となっていく「時の流れ」に思いをはせている。我が子の成長は大地の営みにも似てゆっくりとしているが、しかし、確実に時は過ぎ去り、大地とともに成長しているのだ。大地と共に生きる人間の、大地と人間が一体となっているかのような情景である。
季節とともに大地はその姿を変え、毎年毎年同じことが繰り返されていく、その時間の流れの中で、人間は生き、生かされている。大地と共に生きる農民には洋の東西を問わず、また、宗教を問わず、みなこのような心情を持っているのではないかと、私も大地を耕しながら思うようになってきた。
この歌詞は旧約聖書の伝道の書(新共同訳では「コヘレトの言葉」)をもとに作られていると思われる。
「一代過ぎればまた一代が起こり
永遠に耐えるのは大地。
日は昇り、日は沈み
あえぎ戻り、また昇る。
風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き
風はただ巡りつつ、吹き続ける。
川はみな海に注ぐが海は満ちることなく
どの川も、繰り返しその道程を流れる。」 (コヘレトの言葉(伝道の書) 1.4-7)
この伝道の書は「かつてあったことは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。」(同 1.9)と続いていくように、毎日毎日が同じことの繰り返しで、たとえ人間が金を儲けて財力を蓄えようが、権力を手に入れようと暴力や戦争に明け暮れようが、この世界はなにも変わらない、という日本の無常観に通じるものがこの書にはある。どこでも嫌われ、迫害され追い出されてきた流浪の長い歴史から、ユダヤ民族にはあきらめに似た無常観があるのだろうか。
結婚式という華やかな場で歌われるこの「Sun rises、Sun sets」は、いまは幸せの絶頂にあっても、いつかはここも追われ、逃げ延びていかなければならない彼らの不安な未来を予感させる。
時に流されているような彼らではあるが、彼らには神への信仰がある。伝道の書では、人間のすることはすべてむなしい、しかし、「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて。」(12.13)と締めくくっている。
「神を畏れ、その戒めを守る」生き方は、また、大地を耕すものの生き方でもある。それは「自然を畏れ、自然の戒めを守る」ことに通じるからである。季節という大自然の戒めに自分をゆだね、その季節の赴くがままに、大地を耕し、種をまき、実りを収穫する。種から芽を出し、花を咲かせ、実りを着けてくれるのは大地。大地の不思議で偉大な働きを畏れる。だからこそ、大自然の戒めを越えて生きることは出来ないのである。
ユダヤ人の頑固とも思えるような生き方の根底には、神と大地への畏敬がある。そして、どのように歴史にもて遊ばれ、振り回されようとも、この「神を畏れ、その戒めを守れ」を生きてきたからこそ、ユダヤ民族は今日まで生き延びてこられたのだろう。
「主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように
わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。
涙と共に種を蒔く人は
喜びの歌と共に刈り入れる。
種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は
束ねた穂を背負い
喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」 (詩篇 126.3-7)
この詩篇の箇所もまた、ユダヤ民族の悲痛な願いであるとともに、すべての農民の願いでもある。努力が報われるような労働であってほしい。実りの時を喜びで迎え、いままでの苦しい労働を笑いながら振り返れるように。
ユダヤ人が背負った異邦人としての宿命が、とかくするとあきらめや絶望になるのを、信仰によって昇華させ、神のみ旨として受け入れていく彼らの、どのような状況にあっても希望は捨てない姿に私たちは深い感動を覚えるのである。この希望は神と大地から受け、学んでいったのだと思う。
いま、ロシア正教徒のロシア人(スラブ系)とユダヤ教徒のユダヤ人、という対立構図は、ロシア人とイスラム教徒のアラブ人およびスラブ人に置き換えられ、宗教対立や民族対立はますますエスカレートしていく。また、イスラエルとパレスティナとの間は解決の見えない泥沼化の様相を示している。長い歴史の中で複雑に絡み合ってしまった関係と感情は、一朝一夕で解決するとは思えないが、それでも、人の生命の大切さを忘れ去ってしまった民族に明日はない。
キリスト教とユダヤ教、ユダヤ教とイスラム教、そして、いまや、キリスト教とイスラム教が同じ神をいだきながら、骨肉の争いをくり広げている。信仰はどこへ行ってしまったのだろう。
一日も早い平和な解決を望むばかりである。
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