被造物も待降節

パウロの書簡から


 
 イエス・キリストのご誕生を祝うクリスマスの約4週間前から、キリスト教は待降節に入る。待降節とは救い主がこられるのを今か今かと待ち続けた時を思い、その思いを新たにする期間である。
 しかし、二千年前、救い主がこられ、十字架上の死をもって人類を救ってくださった、というのはキリスト教のもっとも根本的な信仰の一つである。それでは、いま誰を、あるいはなにを待つのか、という疑問が持ち上がる。
 私たちがいま待っているものは、神が造られたすべてのものの完成である。これを世の終わりというが、キリスト教に於いては、世の終わりとはこの世の破滅ではなく、この世の完成である。
 私たちは、世の終わりはこの世の滅亡、という考えにあまりにもとらわれてきたので、なかなか完成という考えにはなじんでいけないかもしれない。多くの新興宗教はこの滅亡を信徒獲得や勢力拡大に用い、そのために財産を失ったり、家庭の崩壊、また、集団自殺という痛ましい事件まで引き起こしている。
 この世の滅亡という考えは、神の失敗、神の敗北を意味する。神がお造りになった被造物は無駄で無意味だった、ということである。神は無駄なことをなさるのだろうか。神にとって失敗ということがあるのだろうか。とすると、神は神でなくなってしまう。神もまた、不完全な存在でしかなくなってしまうからである。
 神に失敗や敗北がないとするなら、神の被造物の完成しかない。つまり、人間を含めて神が造られたすべてのものの完成である。
 パウロは書簡の中でこう語っている。

  「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」 (エフェソ 1.10)

 この完成までには、私たちの人智を越えた、おそらく天文学的な長い期間が必要であろう。また、完成の姿はどのようなものになるのか、具体的には示されていない。曖昧模糊としている。それでも、この世界が完成に向けて歩んでいるというのは、大きな喜びであり希望である。

 被造物の完成に至るプロセスについて、パウロは次のように語る。

  「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。
 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」
 
(ロマ 819-22)

 被造物は、神の子たちの現れるのをうめきをもって待っている、というのである。神の子たちとは、福音を生き、福音を体現している人たちのことである。たとえば、旧約聖書・創世記にある物議を醸しだしている次の箇所、

 「神は彼ら(人間)を祝福して言われた。
 『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」
 
(創世記 1.28)

を人類は長いこと文字通り受け止め、自然界を破壊し、屈服させようとしてきたが、福音書に於いて支配するとは、仕えること、愛すること(参照 マタイ 20.26:、20.28、23.11等)と価値観が逆転している。その仕える、愛するということを生きている人々が神の子たちである。
 いま、地球はひどく傷つけられ、自然破壊や環境汚染が急速に広がっている。幸いというか、それに警鐘を鳴らし、自然保護や環境保護に取り組む人々や生態系を守ろうとする人々が増えてきていることは喜ばしいことである。
 
 神のご計画は、神が御子を通して人間をお救いになったように、御子は人間を通して被造物を救おうとされている。そのために、創世記にあるように人間を御子に似せてお造りになった。神の子たちの創造である。しかし、人間は神を離れ、神の子の姿を失ってしまった。
 いま、切実に神の子へ立ち戻ることが求められている。あまりにも生命を軽視し、愛がないがしろにされているからである。
 自然破壊と人間世界における争いや殺戮、いじめや暴行は無縁ではない。生命と愛の意味を見失った人類の当然の結果である。

 いまや人間世界ばかりではなく、この被造物たちも、うめきをもって神の子たちの現れるのを待ち望んでいるのである。