福島を訪れて  (17.7.1)


  2016年12月、福島県本宮市を訪れた。 そこで東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故による避難者のために、「イエスの小さい姉妹の友愛会」のシスター4人が働いている。かつて長野県南部で農業をしていたとき、私のところから車で30分ほどのところの山の中に住んでいた、20年来のお付き合いのあるシスター達である。そのシスターに福島第一原子力発電所の近辺を案内してもらうために訪れた。この事故については、皆さんもよくご存じのことと思い説明を省くが、時間と共に私たちの中で風化しつつある原発事故の現実を通して、被災者の思いに一歩でも近づければ、と思っている。

除染の現場
 まず出会ったのが道路規制。何のための道路規制だったのか覚えていないが、汚染地区に来たのだという緊張が走る。
 
車の数は少ないが、やはりダンプなどの工事用の車が多い。

 
窓の外に目をやると、うずたかく積み上げられたものにブルーシートが架けられている。
 これは汚染された土地の表面を削り取り、黒くて大きなビニールの袋に入れたものが積まれているということだった。この袋のことを地元の人は「トン袋」と言っているとのこと。
 このトン袋のすさまじさはじ
ょじょに明らかになっていく。
 
ここはトン袋の集積所である。
 高濃度の汚染土壌が袋に詰められ、行き先もないままうずたかく積まれている。このトン袋の土は一体どうなるのだろうか。
 案内のシスターは、この土は密かに工事用に使われたり(災害復旧用に大量の土砂が必要)、海岸の波打ち消しのテトラポットなどに混入されているのではないか、と言っていた。


 汚染土壌が剥ぎ取られ、きれいな基底部分が表出した田んぼが続く。見た目はきれいで、避難解除がなされたら明日からでもすぐ田んぼを復活できそうな気がする。
私も田んぼを作って20年。私の目からすると、この光景は農民に死ねと言っているような絶望の光景である。


 
ここは海岸に近いので、土質は砂地である。水はけが良いので野菜作りに向いているが、水を蓄えなければならない田んぼには不向きである。そのため、水が漏らないように雑草や枯れ葉などの有機物を入れて泥を作らなければならないが、泥ができるのに長い年月が必要である。また、その泥は栄養に富み微生物も多く、米の味を決定づけるミネラルも豊富である。これは畑も同じで、この表層土を土壌という。しかし、砂地にはこの土壌がない。
 栄養分のない痩せた、しかも水を吸い込んでしまう砂地の田んぼ。稲を育てられない田んぼである。


 
土壌を削り取られた田んぼの向こうには水色の塀が続く。
 農作物を育てるいのちの源ともいえる土壌を剥ぎ取られた田畑。死んだ田畑が続く。心が痛む。この痛みは、農業に従事しているものでなければわからないかもしれない。涙が出てくる。


 
臭いものには蓋をせよとばかりに、トン袋の集積地には目隠しが施されている。
目に見えないようにと張り巡らされた塀、人間の愚かさの象徴のような気がする。
目隠しは見せたくないからする。なにを見せたくないのか。人間の思い上がりの結末をである。
塀で囲っても、高濃度の放射能は閉じ込められないのに。



 塀の出入り口の向こうに、3階建ての家ぐらいの高さにトン袋が積まれているのが見える。
 目隠しの塀の色は、澄み渡った空の水色である。あたかも、ここは放射能に汚染されていませんよ、というメッセージかのように。なんともむなしい気持ちにさせられる。

 汚染除去作業をしている。
 電気を使いたいだけ使うという、私たちの過剰な欲の結果がこれである。
放射能を浴びることを覚悟で働いている作業員の方々に、頭を下げて通る。


 
「除染作業中」の幟がはためいていた。そのことばの重さをかみしめる。

無人の街ー浪江町
 今は帰還困難地域で、全員避難中の福島県双葉郡浪江町に入る。
 車の窓から高校生の華やいた姿のない、荒れ果てた体育館が見える。道路脇の鉄柵がさび付いていた。



 
人のいない町並み。信号機だけがその存在を主張するかのように点滅していた。
人がいなくても、車が走っていなくても、どこかの発電所で発電された電気で信号機は働いている。原発でこれほどひどい目に遭っていても、それでも電気を必要とする現実に打ちのめされた気分になる。

 
人の生活の営みがなされていた街並み。今は人のいない街で、家とは、道とは、地域とはなど、普段は考えることもない問いかけが頭をよぎってくる。避難している方にとって、地域社会が崩壊していく現実をどう受け止めておられるのだろうか。心が痛くなってくる。


 
列車の来ない駅。人っ子一人いない駅。浪江駅である。(昨年12月)
今は浪江から北部にいたる線は復旧したが、原発の傍を通る浪江から竜田までの間は不通である。


 
架線も地震で切れたままになっている。


浪江町の避難指示解除
 
17年3月31日に、帰還困難区域を除く区域で、避難指示が解除された。


無人の街ー双葉町
 
道の端に立派な教会が見えてきた。いかにも由緒ある教会といった風情の教会堂である。皆さんはお気づきでしょう。結婚式場である。
 二人で新しい人生、新しい家庭を歩み始めるはずの結婚式場。いつになったら人が戻ってこられるようになるのか。
 いまは除染作業員の宿泊場になっている。


無人の街ー双葉町
 
 
今は幹線国道の通行ができるようになったが、その支線はまだ通行できない。
「この先、帰還困難区域のため、通行制限中です」 原子力災害現地対策本部 双葉町、とある。



 道
路とは本来、人や車が通るためにある。それが鉄柵で閉ざされている。

 
いつもなら農業用の軽トラや農耕用のトラクターが行き交うであろうこんな農道も、鉄柵で閉ざされている。周りには放置されたままの死んだ田んぼや畑が続く。


 車
は通っているが、車を止めて降りることは許されない、いまだ放射能の高い帰還困難区域である。道路から家に入る入り口は、鉄柵で閉ざされているが、これは人のいない家を荒らす盗難避けであろう。

 
本来人がいるはずのところに人がいない、いわゆるゴーストタウン。
 ここではまったく言葉を失ってしまう。語るべき言葉がないのである。
沈黙の世界である。



 
穏やかでひっそりした集落。典型的な農村の風景である。しかし、ここも無人の集落である。ここに人の声が聞こえるようになり、耕運機の音が鳴り響くようになるのはいつのことだろうか。

希望とは? 希望の牧場
福島第一原子力発電所から北北西に14キロ。浪江町に「希望の牧場」という牛を飼う牧場がある。原発の事故後設定された30km圏内の特別警戒区域にあり、牛や豚などの家畜の殺傷と避難を勧告されたが、そこに留まり、被爆の恐れも顧みずに牛を飼ってきた。(いまは避難解除されている)
 
おれは牛飼いで、牛殺しではない、と語るこの牧場の牧場主、吉沢正己さんはいま、360頭の被爆して売り物にならない牛を飼い、牛と共に原発事故の意味を世に問いかけている。
 牛の餌代は、全国からのカンパによる。
 

 
「誰もいなくなった絶望の町でも、ここの牛たちだけは元気に生き続けている。それこそが希望なんだ。それからもう一つ。世の中の人たちに対して『あなたにとっての希望ってなに?』と問いかけたい気持ち、考えてほしい気持ちもあったんだ」
 生き物を相手に生きている百姓は強い。これは私の実感である。それにしても、生きることの中に希望を見出していくとは、すごい人だ。



カトリック教会の取り組みの一つ ー カリタス南相馬ベース
 
福島県南相馬市原町区橋本にカトリック教会があり、その敷地内に「カリタス南相馬ベース」がある。そこではボランティアを受け入れ、南相馬市福祉協議会の支援活動に参加している。以前は廃園となった幼稚園の建物を使っていたが、私が訪れたその一週間後に、この新しい建物の献堂式があった。
 カリタス南相馬ベースについて、また、ボランティアに参加したい方は、詳しくはぜひホームページ(caritas.ctvc.jp)をご覧ください。



 
その敷地内にある放射能測定装置である。そのときの測定値は一時間あたり0.100マイクロシーベルトとあり、正直言ってそれが高いのか低いのかわからない。

 


 
福島第一原子力発電所から漏れ出す放射能は少なくなってきているとはいえ、いまも続いていて収まる気配はない。じょじょに避難指示区域の解除が進んできていて帰還者も出てきているようであるが、人々の不安がなくなったわけではない。かえってそれは大きくなる一方である。
 福島第一原発の廃炉作業の遅れと共に帰還困難区域の恒久化が現実的となってきているが、それとともに原発事故の避難者に対する差別や嫌がらせが大きく報道され、避難している人の帰る当てのない不安ややり場のない怒りに、政府や東京電力は答えようともしない。まだまだ事故は終わっていないのである。