福音と宣教


  先日、隣町の松川町の山奥にいる「イエスの小さい姉妹会」のシスターを訪れました。彼女たちの家は祈りの家として、以前は4名、いまは3名が住んでいますが、いつも暖かく、そして明るく迎えてくれるので、部落の人たちからも評判の家です。
 彼女たちと話をしていて、以前に、「あるおじいさんから『あんたたちは布教しないから本物だ』といわれたのよ」と語っていたことを、ふと思い出しました。この山奥にも新興のキリスト教の一派が布教に来ます。私の村でも、そのしつこさからか「○○(その宗派の名前)の訪問、お断り」と書かれた黄色いステッカーが各家に配られ、玄関の所に張られています。
 そのような状況の下で、ヴェールをかぶったシスターたちの苦労も大変なものがあったことと思いますが、しかし、彼女たちは日々の生き方を通して、村人たちの心をつかんでいきました。おじいさんにそのように言われたというのは、私たちがとかくすると忘れがちになる「生き様(生きている姿)」という証しのすごさをあらためて思い知らされるとともに、私たちのいままでの宣教のあり方に大きな反省点があるのではないかとおもうのです。

 「全世界に行って、すべてのものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ 16.15)とイエスが弟子たちに命じられたこの言葉は、二千年たったいまもキリスト者に与えられた大きな使命として受け継がれています。
 使徒聖パウロは宣教について次のように語っています。
 「『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。
 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。
 聞いたことのない方を、どうして信じられよう。
 また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。
 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。」 (ロマ 10.13-15)

 パウロはここで、救い←呼び求める←信じる←聞く←宣べ伝える←遣わされる人←神、という図式を用いて、人々が救われるためには、神に遣わされた宣べ伝える人から福音を聞き、信じて、呼び求めることが必要であることを強調し、だからこそ「よい知らせを伝えるものの足は、なんと美しいことか」(イザヤ 52.7)とイザヤ書を引用して宣教する者を絶賛しています。
 
 ここで、聞いて信じた者、つまりキリスト者しか救われないのだろうか、という疑問が起きてきます。これにたいしてパウロはふたたびイザヤ書を引用して次のように答えています。
 「わたしは、わたしを探さなかった者たちに見いだされ、
 わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」 (イザヤ 65.1)
 この問題は本題からはずれるので別の機会に譲るとして(しかし、非常に重要なテーマである)、宣教について話を進めることにします。

 福音宣教は、歴史の中でその時代と場所の影響から免れることは出来ませんでした。教会の戦略として、福音宣教が大々的に行われるようになったのは宗教改革以降ですが、それはまた、スペインやポルトガルによる植民地政策が世界中に広がっていった時代でもあります。香辛料や宝石・金を求めて新航路が発見され、南北新大陸が発見され(という言い方もいかにもヨーロッパ的)、続々とアジアや新大陸へと勢力を広げていきました。そして、その船には宣教師が乗り込み、植民地化と宣教が平行して行われていったのです。

 中世以降、教会にはイスラエル民族から引き継いだ神から選ばれたという選民意識があり、キリスト教以外は野蛮で無教養な未開人と考えていました。そのため、宣教とは未開人たちを教育し、文化を高めることを通して、彼らをキリスト教化していこうとし、そこでは宣教の中心を担っていたイエズス会の方針とも重なって、教えること、導くことが主体となり、知識中心となっていきました。
 その流れは日本においても顕著であり、現代に至るまで知識中心の福音宣教となっています。たとえば、「教会」という呼称も、原義は「エクレシア・集会」ですが、日本では教会・「教える会」となり、ヨーロッパ・キリスト教の宣教観がそのまま出ている名称になっています。

 明治になってキリスト教の宣教が再開されるようになると、教会は教育と福祉に力を注ぎ、また、直接的な布教も行われ、信徒が増えるにつれて教会が建てられていきました。唯一の例外は、北海道の函館に近いところでフランス式酪農を北海道に広めていったトラピスト修道院です。
 戦後、多くの宣教師や修道者が来日し、すさまじい勢いで教会やミッションスクール、病院や養護施設、老人ホーム等が設立されていきました。また、多くの教会には幼稚園や保育園が併設され、さまざまな文化教室も教会で開かれ、教育と福祉による宣教は今日まで引き継がれています。
 教会が日本の社会に及ぼした影響は大きなものがあり、それは決して否定されるものではありませんが、日本社会が成熟してくるに従って、教会が行う教育と福祉は大きな曲がり角に直面していることも事実です。それは、社会の急激な変化に対応できず、福音的な先駆者としての役割が色あせてきているからです。
 たとえば、登校拒否、青少年の非行化、女性の社会進出、育児不安や育児拒否、家庭崩壊などの社会情勢に対応している幼稚園や保育園、ミッションスクールは本当に数少なく、その上、教育や福祉の現場では修道者や司祭の減少により施設維持もままならず、福音を体現していくことも困難になっています。
 このような状況は日本中に二千数百ある小教区教会も同じで、司祭や信徒の高齢化、若者たちの教会離れ、司祭の減少等、深刻な状態に直面し、教会にかつてのような活気が見られなくなっています。
 また、小教区においても知識優先は変わらず、勉強会や研究会、話を聞くだけの黙想会等のなんと多いことか。いつの間にか、教会は儀式と学びの場になってしまったのです。教会は出会いの場・エクレシアなのに。

 このような状況にいたって、中世以降続けられてきた宣教方針に大きな欠陥があることに気づかされてきました。それは、知識に偏り、福音を生きるという生き様の証しが軽んじられてきた、ということです。これは少々厳しい、極端な言い方かもしれませんが、現実を見る限り、そう的をはずれてはいないと思います。
 現代人は、司祭のする「仕事」や教育や福祉での「仕事」に神を見、キリストを感じるようには思えません。なぜなら、バブル崩壊以降、じょじょにですが、人々は仕事よりも生き方に重点を移し、仕事によって失われた心を、自分の生き方を変えることによって取り戻そうとしているからです。傷つき、疲れ切った心を癒すのは、言葉や仕事よりも人の生きる姿です。

 人々が求めているのは教師でも、指導者でもない。共に生き、ともに人生を分かち合う仲間なのではないでしょうか。福音は語ることよりも生きるものです。もちろん、語ることを否定するものではありませんが、生きてこそ福音は福音となります。そして、生きてこそ言葉は生命を持つのです。
 生き様の宣教、生きる姿による宣教を考えるときが来ています。
 「福音を語る宣教」から「福音を生きる宣教」へ、それは山奥で暮らすシスターたちが見せてくれた大きな恵みだと思っています。