詩 編 19
2 天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す。
3 昼は昼に語り伝え 夜は夜に知識を送る。
4 話すことも、語ることもなく 声は聞こえなくても
5 その響きは全地に その言葉は世界の果てに向かう。
そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。
6 太陽は、花婿が天蓋から出るように 勇士が喜び勇んで道を走るように
7 天の果てを出で立ち 天の果てを目指して行く。
その熱から隠れうるものはない。
8 主の律法は完全で、魂を生き返らせ 主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。
9 主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え 主の戒めは清らかで、目に光を与える。
10 主への畏れは清く、いつまでも続き 主の裁きはまことで、ことごとく正しい。
11 金にまさり、多くの純金にまさって望ましく 蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。
12 あなたの僕(しもべ)はそれらのことを熟慮し それらを守って大きな報いを受けます。
13 知らずに犯した過ち、隠れた罪から どうかわたしを清めてください。
14 あなたの僕を驕りから引き離し 支配されないようにしてください。
そうすれば、重い背きの罪から清められ わたしは完全になるでしょう。
15 どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない 心の思いが御前に置かれますように。
主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。
詩編19の説明
天も大空も神のみ業を語り、示している。たとえそれが私たちには聞こえず、理解できなくても、宇宙万物は神のみ業を語り(2-5a)、 そのなかでも太陽はもっとも神を雄弁に物語っている。それは、太陽が神の定めた道を忠実に歩んでいるからだ。(5b-7)
同じように、神の定めた人の道(律法)を忠実に歩む者は、神のみ業を語り示しているだ。(8-12) しかし、私たちは心ならずも律法の道を踏み外してしまう。だから主よ、私を罪より救い出してください。そうすれば、私も神のみ業を語ることが出来るようになるでしょう。 (13-15)
1.大自然が神を語るとは
標高750mの山里に居を構えて11年が過ぎようとしている。深い山々に囲まれ、田んぼと畑を相手に大自然に抱かれて生活していると、この大自然がなにかを語りかけ、話しかけてきているのではないか、と思えるようになってくる。単なる寓話的な、あるいは詩的な思いではなく、実際に、この耳には聞こえてこないが、心の耳には確かに語りかけてきている。
「天地万物は神を語る」という一節は、自然志向の人間にとっては感動を覚えるところである.。しかし、これを事実として語るようになると、非科学的とか非現実的なもの、眉唾的な迷信とかオカルト、あるいはアニミズムとして、ほとんど無視されるか軽蔑の対象として扱われ、そして、だから宗教はおとぎ話なんだ、と一笑に付されてしまう。(註 アニミズムとは、動植物その他の無生物にいたるまでが、人間と同じようにそれ自身の霊魂を持っており、何らかの意味で、生きて作用しているという考え)
いま、宗教と現実世界は遊離してしまい、互いに干渉しないようにして共存を図っている。とくに科学と宗教の関係はほとんど没干渉に近い。だから、「天地万物は神を語っている」という表現はあくまでも宗教世界のこととして、科学の世界はそれを相手にもしない。
しかし、そうではあっても、やはり問いかけていきたい。
「天地万物は神を語っている」のではないか、と。
イ) 旧約聖書・詩編からの説明
なぜ、天地万物は神を語るのか。それは神がこの宇宙万物を造られたからである。
「神はこれらをみな知恵をもって造り、地は神のもので満ちている」(詩編104)。だから、「造られたすべてのものは神をたたえ、あなたの国の栄光を語り、力あるみ業を告げる」(詩編145)のである。
旧約聖書の時代、イスラエル人たちは天地万物と深い関わりを持って生きていた。とくに、エジプトでピラミッド建設に携わり、そこで天体の神秘と奥深さを体験し、エジプトから解放された後も40年間砂漠を放浪しながら、天体の神秘を思い巡らしていた。ただ、天体は占星術や偶像崇拝につながりやすく、十戒で厳しく偶像崇拝が禁じられていたので、聖書の中では天体の神秘についてはあまり語られていない。
それでもごく自然に、「天は神の栄光を語り、大空はみ手の業を告げる」という感覚は、強く持っていたようである。詩編作者といわれるダビデは、もとは羊飼いであり、夜は暗闇の中、羊の番をしながら空を見上げては神と語っていたのであろう。そのときの感動が、この詩編19を作り上げたのではないだろうか。
ロ) ヨハネ福音書から
新約聖書のヨハネ福音書1章では、宇宙万物の起源が、神のみ言葉であるイエス・キリストとの関わりにおいて述べられている。ここでは、神は永遠のかなたから語る存在として述べられている。「語る」とは相手に自分を示し、自分を与えることであり、同時に、相手を聞き、相手を受け入れることである。
その語る神の口から出た「言葉」は、永遠から存在し、神とともにあり、神そのものである。(ヨハネ1.1-2)
そして、神はその「言葉」を通してすべてをお造りになり、「言葉」に依らずに作られたものは一つとしてないのである。(1.3)
「言葉」によって創られたものは、「言葉」の性格を色濃く受け、本質的に語る存在となった。つまり、み言葉によって造られたこの被造物・宇宙万物は本質的におしゃべりなのである。
ハ) パウロの書簡から
パウロも天地万物の創造に関しては、ヨハネと同じようなことを主張する。(時間的には、パウロの書簡が先(50年頃)に書かれ、ヨハネ福音書は後で(90年頃)書かれた。)
パウロは「天にあるものも地にあるものも、万物は御子において造られた。つまり、万物は御子によって、御子のために造られた。」(コロサイ 1.16) だから、「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。」(ローマ 1.20)と語る。パウロは、万物は神性に満ちており、存在自身が声高に神を述べ伝えているというのである。
またそれに加え、人間の勝手な行為により大自然は大きく傷つき、「被造物は神の子たちの現れるのを切に待ち望んで(ローマ 8.19)、今日まで共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている(同22)」
被造物は、私たち人間に、うめき・苦しみのサインを送っている。被造物は神の栄光ばかりではなく、うめき苦しみの声も上げているというのである。私たち人間は、被造物の賛美の喜びの声と共に、苦しみのうめき声も聞き分けなければならない。
2.渓声山色(けいせいさんしき)
私は詩編19でふと思い出したのが、道元が著した「正法眼蔵」の第25「渓声山色」である。道元は13世紀に、福井の山中に永平寺を建て、禅の曹洞宗を開いた人である。
道元は「渓声山色」の中で、北宋の詩人蘇東坡(そとうばー11世紀の人)の詩を引用し、大自然と人間の存在認識の関係を語っている。
「渓声すなわちこれ広長舌、山色、清浄身に非ざることなし」
(渓川のせせらぎは雄弁に仏の説法を語り、山の色(たたずまい)は仏の清浄身(姿)を
示している)
渓谷の川の流れる水の音、山の姿は仏を語り示している、という。それは、山河大地はみな仏性によって建立され(山河大地皆依建立)、みな仏性の海(この山河大地、みな仏性海なり)だからである。それゆえ、山河を見ることは仏性を見ることであり、仏性を見るとはいつも目にしているもの(ここではロバや馬の口)を見ることでもある。(正法眼蔵ー仏性)
パウロは「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れていて、これを通して神を知ることができる」(ローマ 1.20)と言っているが、パウロから1100年も後の道元も同じようなことを言っている。つまり、宇宙万物の背後あるいはその根本のところに神や仏がいて、宇宙万物はその神や仏を語り、示しているという。
山水に隠されている(仏の)声、(仏の)色(すがた)に気づかないことは残念なことである。しかし、嬉しいことに、その声、色が山水に現れるとき(時節因縁)がある。(渓声山色)
3.声を聞き、色(姿)を見る
現実的に、私たちにはなかなか天地の声が、渓谷の水の音が聞こえてこない、山のたたずまいを見ても、なにも見えてこない。それはいったいなぜなのか。詩編19は、それは罪(自己中心)のためといい、罪から清められることを神に願い祈っている。罪という言葉は私たち日本人には重い言葉であるが、ほんらいは我とか自我といった意味である。
道元は「正修行のとき、渓声渓色、山色山声、ともに八万四千偈ををしまざるなり」(渓声山色)という。
正しい修行の時、渓谷の声渓川の姿、山の姿山の声は、おまえに法(真理)を語りかけることを惜しまない。
では、正しい修行とはどういうものなのか。
正修行については、現成公案に「これぞ道元!」という有名な一文がある。
「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落(身心脱落)せしむるなり。」
仏道をならう(修行する)というのは、自己をならう(修行する)ことである。
自己を修行するというのは、自己が自己を忘れることである。
そのような自己を忘れるということは、万法から(自己が)実証されることである。
万法から実証されるということは、自己の身心および他己(私の中にある他人)の身心が自分のものでないことを徹底させるのである。(水野弥穂子訳註)
自己から万法を修行し、実証しようとするのを迷いとし、万法の方から、自己の生きている真実を修行させられ、実証lさせられるのがさとりである、といっているが、これは、渓声渓色、山色山声を聞こう見ようとするのを迷いとし、渓谷や山の方からその声を聞かせてくれ、姿を見せてくれる、それに気づくこと(正修行)が悟りである、ということである。
渓谷の声を聞こうとするのではなく、渓谷の方から声を聞かせてくれる(万法から自己が実証される)。そのためには自分の身心を脱落しなければならない。
これは、カウンセリングを大成させたカール・ロジャースの「来訪者中心」(クライエントセンター)、つまり、自分を相手に押しつけていくのではなく、先入観や偏見を持たずに自分を白紙状態にし、相手の言うこと思っていることを受け止めていく、という姿勢と似通っている。つまり、自己中心ではなく、相手中心の姿勢である。しかし、道元はさらに深く、相手中心という意識すらも捨てなければならないという。
身心脱落(しんじんだつらく)
それでは、どのようにして身心脱落が可能なのだろうか。道元は身心脱落のためには、ただひたすらに座禅をすること「只管打坐」を求めている。なにも考えず、なにも思わずにただひたすらに坐り続けるのである。(坐禅儀)
道元は公家の出だから坐禅という方法を編み出したが、百姓はただひたすらに土を耕し、ただひたすらに雑草を取る。身体を使う分、それだけ無心になれる。坐禅に勝る身心脱落の方法である(と思っている)。それぞれの人がそれぞれの場で身心脱落を体験することが出来る。家庭の主婦は料理をしながら、子育てをしながら、ただひたすらにその業をすればよい。職場でただひたすらに仕事に打ち込んでいく。それでよいのだ。
「人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。」(現成公案)
さとりとは、水に月がうつる、それをそのまま、あるがままを受け入れていくことである。渓谷や山が、私という水に声や姿を写してくれる、ただそれを聞き、観ずればよい。それがさとりである。月や水に一切手を加えず、徹底的に自分を真っ白にし、無にして山川草木を受け入れていく、それが聞く、見るということなのだ。
種田山頭火 (1882-1940)
曹洞宗の僧侶で、乞食をしながら放浪の生活を送る。俳人。
山頭火の句に
「こころおちつけば水の音」
というのがある。とらわれ、みだれ、ふさがれていた心が、ふとそれらから解放されたとき、それまで聞こえていなかった水の音がハッと聞こえてくる。アッ、水だ、水が流れている。私が聞こうとして聞こえた音ではない。音の方から聞かせてくれたのだ。
水の音が聞こえてくる。ただそれだけでいい。水の音が何の意味があるのか。なぜ聞こえるのか、などと考えることはない。聞こえる、ということに耳を傾ければそれでいい。
「分け入れば水音」
「お月さまがお地蔵さまにお寒くなりました」
この句を子ども向けの童話や民話として受け止めることも出来よう。しかし、山頭火にとって、月も地蔵も彼自身もみな生きていて、共に語り合う存在なのだ。山頭火には、お月様がお地蔵さまに話しかけている声が聞こえたのであろう。彼にとってはおとぎ話ではないのである。
4.現代は事実しか認めない
現代は目に見え、耳に聞こえ、手で触れることが出来、具体的で実験で確かめることが出来る物事しか信じない時代である。そういう事実しか信じない社会で、心や精神はどこかに置き忘れ去られてしまっている。そういう時代だからこそ、聞こえない音を聞く耳、見えない姿を見る目、触れることが出来ないものに触れる心が求められる。
人間はこの大自然無しには生きることはおろか存在すらできないのに、大自然との間に深い溝を作ってしまった。それは大自然の声を聞こうとする心を失ってしまったからだ。存在するものの声が聞こえなくなったときから、自然破壊が始まった。欲に目がくらみ、おごり高ぶる人間にはこの自然が発する声を聞く耳など、初めから持ち合わせていなかった。今、大自然が、地球が変調をきたすようになって、あわてて対策を講じようとしている。
今から2500年も昔の人々が、この天地万物と人間と神の大きな世界観を持ち、心を通わせていたというのは当然のことかもしれないが、それにしても大きな驚きである。
科学が発達し、便利なものが溢れている現代、それに比較してますます天地万物の声を聞き、たたずまいを見る目や耳が衰えてきている。もう一度、あの詩編19を静かに唱えてみたい。
参考資料
・「詩編」 フランシスコ会聖書研究所訳註 中央出版社
・新共同訳 「旧約聖書注解Ⅱ」 日本基督教団出版局
・「正法眼蔵」 道元著 水野弥穂子校注 岩波文庫
・原文対照現代語訳 「道元禅師全集」 水野弥穂子訳註 春秋社
・現代文訳 「正法眼蔵」 石井恭二訳 河出文庫
・山頭火句集 ちくま文庫
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