農村の山奥に住んでいると、カトリック教会がとても遠くに感じることがある。距離的ではなく、精神的というか心情的にである。
カトリック教会は明治に入って再宣教が行われるようになった以来、九州の長崎や一部を除いて、農村に対して相手を意識することもなく、関係のない存在として関わりを持とうともしてこなかった。もちろん農村を巡る宣教師がいなかったわけではないが、それも信徒を増やし、教会を建てるための宣教であって、農村そのもの、農民そのものとの関わりはついに生まれてこなかった。そのため、教会の中で農村や農業が話題になることはまずなく、また、農村で通じる言葉も持っていない。日本教会から世界各地、とくにアジアやアフリカ、中南米など第三世界といわれる国々へ宣教に派遣される人も多くなってきたが、国内の農村への宣教はまったくと言っていいほど無視されてきた。
そのために、日本における農村宣教の歴史は、プロテスタントの農村宣教の歴史になってしまうのは仕方のないことである。
日本における農村宣教は、開拓精神あふれるアメリカからきたプロテスタントの宣教師によって始められた。まず、1876年札幌農学校の初代教頭としてアメリカから招聘された、マサチューセッツ農科大学の初代学長ウイリアム・スミス・クラーク博士に始まる。博士は札幌農学校でキリスト教精神に基づいた教育をし、博士の薫陶を受けた多くの若者(その中には内村鑑三や新渡戸稲造などもいる)を世に送り出した。
明治政府は農学校の卒業生の受け皿として各地に農業試験場を設立し、農学校でキリスト教に入信したもの、あるいはその影響を深く受けたものが各地の農業試験場を通して農民の指導者として働いていった。宮沢賢治も晩年は日蓮宗の信仰にはいるが、彼も花巻農学校でキリスト教の影響を強く受けている。
北海道にキリスト教的な理想郷を作ろうとキリスト者が集団で入植しているが、北見地方に入植した北光社などが有名である。長野県では、野尻湖畔や清里村に入植している。
クラーク博士らはアメリカから大農式農業を、トラピスト修道士たちはヨーロッパの酪農を日本に持ってきて、北海道に欧米式の農業を始め、ジャガイモ、タマネギ、トウモロコシ、小麦、大豆、砂糖ダイコン(ビート)などの大規模栽培が行われるようになった。これは泰西農業(西洋農業)といわれ、蛋白と脂肪重視の農業である。
政府は北海道の土地を安く地主に払い下げ、地主はそこで牧場を開き酪農を行い、乳製品の加工を始めた。北海道の大牧場主や雪印、森永、明治といった乳製品加工会社の創立者の多くは開拓地主で、キリスト者(プロテスタント)が多い。余談ではあるが、数字を冠した銀行(八十二銀行のような)の創立者もほとんどが地主で、キリスト者が多いという。
農学校に入学できるものは経済的に余裕のある地主階級や豪農の子弟に限られ、多くの農民は小作人として貧しい生活を余儀なくされていた。そこで小作人の農学校を開いた杉山元治郎、デンマークの三愛農業(神を愛し、人を愛し、土を愛する)を唱えた賀川豊彦、松本で受洗した木下直江などのキリスト者の農民指導者は、小作人の組合を作り農地解放を目指そうとしたが、政府によって弾圧され実現しなかった。
明治政府は大口の納税源である地主階級を保護し、また、ロシア革命の主体が労働者と農民であったところから、農民が団結することを極度に警戒したのだろう。
農地解放と農民組合の結成は、戦後、マッカーサーとGHQを通して戦後三年目にして(1947年)実現していった。農業協同組合、農協である。このように日本のプロテスタントは、日本の農村や農民の歴史に大きな影響を与えてきた。現在も、多くのキリスト者農民が日本各地で地道な活動をしていて、各地に農村伝導集会や教区単位の農村伝導大会が開かれている。日本キリスト教団には農村伝導神学校があり、農民指導ができる教役者を養成している。無教会派には農村や山間地に農業と学校教育を組み合わせた全寮制の高校(農業高校ではない)がいくつかあり、すばらしい人間教育がなされている。
アメリカから宣教師とヨーロッパからきた宣教師とではなぜこれほどまでに、農村や農業に対して考え方が違うのだろう。日本のカトリック教会では、神父や修道者が農業をしているといえば、何か重大な間違いや罪を犯したとか、司祭職や修道生活に挫折したかとか、そういった評価しか来ない。農村や農業を無視し、軽視してきたカトリックの体質、それはヨーロッパカトリックの持っている貴族的体質であり、日本に派遣されてきた宣教師の受けた養成の問題だと思っている。
遠くギリシャやローマの時代から、肉体労働や重労働は奴隷の仕事で、政治や哲学、芸術等の知的労働やスポーツ、それに軍事は自由市民がそれを行った。これは中世の教会においても、王侯貴族の子弟が教会や修道会の要職を占めるようになると、ますます肉体労働は軽んじられるようになり、現代においてもまだ脱却できず、教会の中に色濃く残っている。
それに加えカトリックの宣教観も、農村との関わりを難しくしている。それはカトリックの宣教観は宗教改革によって失われた地を回復し、勢力を挽回するというもので、信者の数と教会の数を増やすことに主眼がおかれ、そのため、農村は信者を増やすには非効率なものとして敬遠されてきた。
また、貴族的体質から来る保守主義と現状維持の発想は、農民や労働者、貧しい人々の立場に立たず、政府寄りの立場をとってきた。そのために、カトリックが大勢を占める国々で、独裁政治や大地主制度が残っている国が多くあり、貧困や人権侵害が日常化している国もある。
1970年代に南米や中南米から始まった「解放の神学」は、教会が農民の側に立った農民解放運動として世界的広がりが期待されたが、アメリカCIAによってつぶされ、また、バチカンの全面的な賛同が得られなかったことは返す返すも残念なことであった。
このままでは、教会は日本社会において地に足のつかない浮き雲のような存在になってしまう。農村に根付けない状況はとりもなおさず、日本社会に根付けない姿を現しているからである。
農業が衰退し、農村が過疎化高齢化し、田畑や山林が荒廃していく日本にあって、カトリック教会が農村や農業を意味のないものとして切り捨てていくならば、それは大きな過ちを犯すことになる。過去の過ちを繰り返さないでほしいものだ。