序文ー導入
1−16
1.ラウダート・シ、ミ・シニョーレ
「わたしたち皆がともに暮らす家は、わたしたちの生を分かち合う姉妹のような存在であり、わたしたちをその懐に抱こうと腕を広げる美しい母のような存在である」 「ラウダート・シ」はフランシスコの太陽の歌の序文に続いて、この教皇フランシスコの美しい言葉で始まる。わたしたちが住んでいる地球は、「皆がともに暮らす家」なのだ。これが「ラウダート・シ」のテーマであり、いつも「皆」「ともに」「暮らす」「家」という主題が底流をなしている。 エコロジーのエコは、ギリシャ語のエイコス「家」を意味する。 2.今、地球は叫び声を上げている 「地球は人間によって生じた傷によって、叫びを上げている」 これについては「エコロジーの部屋ーいま地球で」を参照。 「わたしたちの身体そのものが地球の諸元素からできています」 フランシスコの「太陽の歌」はその諸元素を美しく歌い上げている。「『太陽の歌』と曼荼羅」を参照。その意味するところは、わたしたちの身体もこの大自然と、いやこの大宇宙と同じ元素でできている、つまり、わたしたちは被造物の一員、この宇宙の一員なのだということである。ちなみに、この宇宙は一粒の素粒子から出発した。 無関心でいられるものはこの世に何一つありません バチカン第二公会議以降、歴代の教皇は全世界に向かって、地球に対する人間の行為に警鐘を鳴らしている。 3.聖ヨハネ23世 教皇は回勅「パーチェム・イン・テーリス(地上の平和)」の対象を、この地球上のすべての人との対話においている。通常、回勅はカトリック信者に向けて公布されるが、この回勅は宗教、国、民族を超えてすべての人に向けられたものである。同じように、教皇フランシスコも「皆が共に暮らす家についての、すべての人との対話に加わりたい」のである。 4.福者パウロ6世 「自然を無分別に利用したことで、自然破壊の危機にさらされている」 福者パウロ6世は、自らが招いた自然破壊・生態系異変に「抜本的な改革の緊急の必要性」を訴える。 5.聖ヨハネ・パウロ2世 「真の人間的発展は道徳的な性質を持っています」 彼は「地球規模でのエコロジカルな回心」と「真のヒューマン・エコロジーのための道徳的条件」を訴えてくる。 6.ベネディクト16世 彼は「世界経済の機能不全構造的な原因の排除と、環境保護を担保できないことが実証された成長モデルの訂正」を提案しました。 「自分たちのためにだけそれを利用するとこでは、自分よりい優れたものを認めなくなり、自分たち以外のなにものをも見なくなるところでは、被造界の誤用が始まり」被造界は傷つく。」 同じ懸念に結ばれて 7 教皇たちの発言 科学者、哲学者、神学者、市民グループの省察を受け入れたもの。 8 ヴァルソロメオス総主教ー悔い改めの必要 「人間が地球の十全さをおとしめること、人間が、地球上の水や空気や生命を汚染すること、これらはすべて罪なのです」 9 人間性の転換 彼は「単に手放すことではなく、与えることを習得すること」を求める。 「この世界を、交わりの秘蹟として、神と、また地球規模で隣人と分かち合う道として受け入れること」 アシジの聖フランシスコ 10 エコロジーの最高の模範 「聖フランシスコは傷つきやすいものへの気遣いの最高の手本」「総合的なエコロジーの最高の模範」 ここで初めて出てきた「総合的(インテグラル)エコロジー」という言葉について考えてみよう。 この言葉はエコロジーから出てきた言葉で、バラバラのものを関係づけて統合していく、という意味がある。これはヨーロッパ思想に強く流れているプラトン的二元論や帰納的発想(分析的発想)による物事が、バラバラに細分化され、関係性やつながりが見えなくなってしまった。それをエコロジーは演繹的(統合的)に関係づけ、ヨーロッパ的発想の欠点を克服していった。すべての存在は深いつながり(関係性)もって存在している。エコロジーが言う「網の目状態」である。 そのような意味で、総合的というより統合的のほうが、よりエコロジーに近いようだ。 フランシスコの太陽の歌では、全ての存在は「兄弟姉妹」という素晴らしい関係性を有している。つまり、同じ家に住むものたちの関係性である。私たちも、他の被造物の一員なのだ。 11 実在するものの核心へ 「『彼は、被造界全体と心が通じ合っており、、、』」 聖フランシスコの貧しさと簡素さは、現実を利用や支配の単なる客体におとしめてしまうことへの拒絶なのです。」 12 世界は観想されるべき神秘 彼は自然を、神がそこでわたしたちに語りかけ、ご自分の無限の美や善を垣間見させてくれる、壮麗な一冊の本と見なすよう誘います。 「世界は、歓喜と賛美をもって観想されるべき喜ばしい神秘なのです」 私はここで、道元禅師「正法眼蔵」第25渓声山色が浮かんでくる。渓谷の流れの音は仏のおしゃべり、山の姿は仏の姿、という一節である。 「観想されるべき神秘」という表現に、深い感動を覚える。 わたしの訴え 13 切迫した課題 わたしはここで、わたしたちが共住する家(地球)をしっかりと守るために無数の仕方で奮闘しているすべての人をたたえ、励まし、感謝したく思います。 14.抵抗と無関心 残念ながら環境危機の具体的解決を探る取り組みは、強力な抵抗によるだけでなく、より一般的に見られる関心の欠如によっても、その多くが挫かれました。妨害的な態度は、信仰者達の中にさえ存在し、問題の否定から、無関心、冷ややかな諦め、技術的解決への盲進にまで及んでいます。 教会内での無理解と無関心、強力な抵抗はなぜ起こるのか。そこには人間の持つ利己心やエゴイズムと言った罪の概念からだけでは説明しきれないものある。ヨーロッパの長い精神史、思想史を眺めれば、そこに脈々と流れるものが見えてくる。それは、プラトンーグノーシス的思想である。 プラトンの精神と物質、グノーシスの善と悪、それが融合した善である精神と悪である物質という二元論が、いろいろな形に姿を変えながら現代にまで続いている。そのために物質に対する軽視や人間の従属物と言った思想がはびこっていて、そのために物質は信仰の世界から排除されている。つまり信仰の世界の中から物質、自然界、被造物は除外されているのである。 教会の中でこの回勅が無視され反発を受けるのはヨーロッパの長い精神構造によるのである。もちろんそれに人間の自己中心やエゴイズム、利己主義が加わってくる。 15.回勅の目的 この回勅が、直面する課題の重要性、規模の大きさ、緊急性を認識する助けとなることを希望します。 16.回勅の中の重要なテーマ ・貧しい人々と地球の脆弱さとの間にある密接な関わり ・世界中のあらゆるものはつながっているという確信 ・テクノロジーに由来する勢力の新たなパラダイム(状況)と権力形態の批判 ・経済や進歩についての従来とは別の理解の方法を探る呼びかけ ・それぞれの被造物に固有な価値 ・エコロジーの人間的な意味 ・素直で正直な討議の必要性 ・国際的な政策及び地域的な政策が有する重大な責任 ・使い捨て文化 ・新たなライフスタイル 回勅の序文に見られる流れは、この世界を精神と物質に分け、宗教の世界から物質の世界を除外してしまった、つまり、信仰から神の創造を除外してしまったヨーロッパの精神構造へのチャレンジと考えられる。そのために、この回勅ラウダート・シは猛烈な無関心にさらされるだろうと思われる。 |