太陽の歌と曼荼羅
(2017.10.15)

「兄弟なる太陽の歌」はこちらを参照してください。


 アシジの聖フランシスコの「兄弟なる太陽の歌」は中世イタリア文学の傑作といわれ、今も多くの人を魅了している。吟遊詩人と呼ばれたフランシスコは、民衆の話している言葉で、神と神が創られた被造物の素晴らしさを歌い上げているからである。ヨーロッパでは「太陽の歌」は自然賛歌として捉えられ、自然保護や環境保護のシンボルにさえなっている。
 教皇フランシスコが2015年に出した回勅「ラウダート・シ」のラウダート・シというタイトル名は太陽の歌の冒頭(古イタリア語)で、教皇はこの回勅の中で、「わたしたちは子孫にどのような住処(地球)を残そうとしているのか」と、今地球上で繰り広げられているさまざまな問題・課題を問いかけている。

 四季があり、自然が豊かな日本に住むものとして、太陽の歌もまたわたしたちの歌である。太陽の歌はフランシスコの、造られたものを通して神に対する強烈な賛美の歌であり、創造賛歌である。それはまた、この宇宙にみなぎる神のいのちへの賛歌でもある。
 この太陽の歌を、一つの試みとして9世紀の仏教者、弘法大師空海の曼荼羅と対比させてみようと思う。曼荼羅はほとけのいのちの世界、宇宙を現しているという。太陽の歌もまた神の創造、神のいのちを歌いあげているからである。

1. 胎蔵界曼荼羅と太陽の歌
 曼荼羅は仏教の密教で用いられる仏の世界を描いたものである。曼荼羅はサンスクリット語(梵語)のマンダラを漢字化したもので、マンダは中心とか心髄を意味し、ラは所有を意味する接尾辞という。心髄は悟りを意味するので、マンダラはさとりの場、聖なる空間を意味している。
 空海の曼荼羅は宇宙を創造した大日如来を中心に据え、その周りをさまざまな姿で現れる仏を配置する。大日如来はらせん状に外へ向かい、この世界と宇宙を包み込んでいく。つまり、すべて形あるものはみな仏性をもっている(悉有仏性)ので、この世界に存在するものはみな仏の姿で現されている。この宇宙を創造した大日如来を中心とした世界・宇宙が空海の曼荼羅である。
 曼荼羅は中心の大日如来から外縁に向かう見方と、外縁から中心に向かう見方がある。前者は大日如来がどのように自己を現していくか、どのように我々の周りに現れているのかが描かれ、後者は我々の回りのものから中心、大日如来へと歩んでいく。目に見える世界の中に目に見えない仏の世界を見ていくのが曼荼羅である。

 フランシスコの太陽の歌も、宇宙万物を創造された至高の神を中心に、太陽と月と星々を配し、その周りを大空と風、水と火、大地が続き、それらを生と死が取り囲む壮大な宇宙を詠っている。神が創られた被造物は風、水と火、大地によって出来ていて、それを生と死によって決定的に特徴づけられている。太陽の歌はただの被造物の賛美だけではなく、フランシスコの世界観・宇宙観、そして、人生観をも表している。
 太陽の歌も頭から詠んでいくのと、最後から逆に詠んでいく読み方もある。神から出発してわたしたちの周りの世界に至るか、わたしたちの周りの世界から神に向かっていくか、ともに豊かで深い読み方ができる。

2. 身体曼荼羅と太陽の歌
 左の図は空海の曼荼羅の一種、身体曼荼羅を具現化した五輪塔であるが、万物を構成する五つの要素(五輪あるいは五大ともいう)は識(心)によってまとめられ、調和・統一が保たれている。この五大に空海はそれらを統合する識を加えて「六大」とする。識は宇宙を統べるいのちだという。
 形の意味するところは、ものを支える大地は四方形、表面張力で水は丸くなり、炎の火は三角、三日月の風(意味不明)、ものを生み出す空は如意宝珠であるという。(頼富本宏 密教 講談社現代新書)
  身体曼荼羅では私たち自身も小宇宙として、これらの要素から成り立っていて、身体を五輪塔に置き換えている。
 
この写真は、金剛山千早登山道沿にある楠木正成の次男、正儀の墓で、楠木正成が幕府軍と戦った千早城跡(日本100名城ー55番)の上の方にある。
 五輪塔の姿が端正である。

 紀元前600年頃の古代ギリシャでは、地・水・火・風が万物を形作っている要素として、そしてそれらを動かしているものとして「流転」や「存在」が考えられていた。このギリシャ思想はヨーロッパの中世にまで影響を与え、フランシスコの太陽の歌にも大きな影響を与えている。
 太陽の歌の構成は、 いと高き神、 太陽、 月と星・大空、 風・大気・雲・晴天、 水、 火、 大地、 生、 死、 わたしの主、の順となっている。それを曼荼羅に当てはめてみると、火と水が太陽の歌では逆であり、被造物の生と死で世界をまとめ上げている。火と水の順序は、空海の曼荼羅では水は地から湧き出てくるもの、火は上から注がれるもの(稲光のように)と考えられていた。それに対して、旧約聖書の世界観では、神は水で空を覆い、その覆いが時々破れて上から水が落ちてくる(雨)と考えられていた。雨が少なく乾燥地帯のイスラエルにとって、雨はあくまでも天からの贈り物なのである。そのため風の次に水が来たのだろう。

3. 太陽の歌について
 フランシスコは、神が創られた被造物を自分の兄弟姉妹と呼ぶ。宇宙を構成し、自分の身体をも構成している元素を兄弟姉妹と呼んでいる。わたしたち人間はこの宇宙万物と同じものでできているが故に、すべてのものと兄弟姉妹なのだと。フランシスコは兄弟姉妹である宇宙万物とともに神に感謝し、賛美を捧げていく。
 神と被造物との決定的な違いは、神には始めも終わりもない、つまり、生と死がない(永遠・無限なお方)が、造られたものは生と死という時間と限界(空間)の中に存在している。この生と死がこの宇宙を統合しているものなのだろうか。いや、被造物を生と死で調和・統合している神のいのちこそがこの宇宙を統合しているのである。だからこそフランシスコにとってどのような生も死さえも、自分の兄弟姉妹であり、ほむべき存在なのである。

参考資料
 ・ 大角修 まんだら絵解き図鑑 双葉社
 ・ 頼富本宏 密教 講談社現代新書
 ・ 篠原資明 空海と日本思想 岩波新書