存在の根源・清貧

フランシスコの世界観を変えた清貧

2017.10.10


 アシジの聖フランシスコの清貧については、ほとんど語り尽くされた感がするが、それでもまだ腑に落ちないところが数多くある。彼の清貧はキリストに習って貧しくなった、ただそれだけなのだろうか。初めの動機はそうであったにしても、清貧がフランシスコの内面に深い影響を与え、彼を素晴らしい高みへと成長させたのは確かである。
 フランシスコのその内面をちょっと垣間見たい。おそらく近づきがたいほどの深みであることは想像がつくが、それでも近づいてみたい。

1 フランシスコの清貧
 清貧がフランシスコの霊性とどのように結びついてくるのか、必ずしも明瞭ではない。清貧とはただ金銭やものを所有しないという信仰の外的表現、つまり、物質的現実あるいは社会的現実の内にだけあるものではなく、もっと内的で霊性的な、存在の根源に関するものなはずである。(タデエ・マトゥーラ著 フランシスコ・霊性の教師、フランシスカン叢書3)
 彼は会則の中で、本当の貧しさは自分を捨て、人間の中ではなく神のうちにこそすべての善いものがあり、すべての善いものは神に属し、神だけが善いものであると認めることの内にこそ清貧はある、と記している。(D・フラッド・フランシスカンカリスマの誕生、フランシスカン叢書1)
 それ故、フランシスコの清貧は3つの根本的な働きからなっている。
  1 すべての善いものは神のものだと認める。
  2 わたしたちの属するのはただ、悪と不幸だけであると認める。
  3 毎日キリストの十字架を担う。それはすべての人々に従い、さらには嘲笑、病気、   死を受け入れることの内に実現される。 (フランシスコ・霊性の教師)
 1 はまだ理解できる。しかし、2と3は現代社会に生きるわたし達にとって、受け入れるのは相当に難い。高度に発達した技術社会と複雑な社会構造からくる複雑でストレスのたまる人間関係。そのような状況の中で生きることを強いられているわたし達にとって、これ以上の自己否定は耐えられない。自分を愛せない、自分を受け入れられない、自分に自信を持てない、私は自分が嫌い、という人は少なくない。多かれ少なかれ、劣等感を持って生きている現代人は多い。こういう人々、つまり現代人に、フランシスコの清貧の道を歩むことは可能なのだろうか、あるいは、その意味があるのだろうか。

2 フランシスコの感性
 フランシスコは神学校や修道院で司祭になるための特別な訓練を受けたわけではない。つまり、とくべつ神学の勉学をしたわけではない。そのため、聖書や神学の素養は一般信徒とそう違ったものではなかった。その中で、彼の神への思いはどのように育てられ、どのように成長していったのであろうか。
 改心後の彼は聖書、とくに福音書を熟読するようになり、キリストを通して神への理解が深まっていったが、神理解は彼の感性から来る独特のものであった。彼は、神が創造されたこの被造物の世界を通して神の神秘に入っていった。
 「全能、至聖、至高、至上の神、、、あなたの聖なるご意思によって、そして、あなたの御独り子によって、聖霊とともに、あなたは、、、すべてお創りになったからです。」(第一会則 24章)
 彼の感性はこの被造物を見たとき、全能、至聖、至高、至上と、これ以上考えられない言葉でしか神を表現するしかなかった。私の内を含めてすべての善いものは神のもの、神から来たもの。善いものは神だけである。ミサの第3奉献文の締めくくりの「主キリストを通して、あなたはすべての善いものを世にお与えになります」との言葉はフランシスコの思いでもあった。
 フランシスコは天性なのか、あるいは神からの特別な恵みをいただいたのか、物事をありのままに見る目を持っていた。何事をも足し算も引き算もしないで、そのままを見る。「あるがまま」ということであり、禅でいうところの「即今当処自己」である。
 あるがままに自己とこの世界を見るとき、当然のこととして、神は至高・至善の方として感得されていった。清貧の3つの働きの第一番目「すべての善いものは神のものだと認める。」は、フランシスコにとってごく当然のこととして導き出されてきたものある。
 
3 フランシスコの自己確認
 自分の内からすべての善いものを神のものとすると、後に残るのは自分の罪深さや欠点、弱点、苦しみや不幸だけである。フランシスコは自分の罪深さを嘆き悲しみ、泣いて目を潰した、とまでいわれている。しかし、それによって彼は自己嫌悪と自己否定の深遠にはまり込んではいかなかった。それは、その罪深さや弱さ故に神はわたしたちを哀れみ、永遠から無限の愛で愛しておられる御独り子をわたしたちのために人とされ、御子はわたしたちへの愛のために十字架を通して贖ってくださったからである。神はそれほどわたしたちを愛してくださっている。それ以上の喜びと幸せはあるだろうか。
 ここでも神は私以上のものである。神の愛と哀れみは、私の悪と罪よりも永遠無限に大きい。私の罪と哀れみに対しても神は至善なのである。
 「わたしたちの貧しさとは、わたしたち自身の中にあるこの暗闇の部分を、謙虚に愛情込めて受け入れていくことである」 (フランシスコ・霊性の教師)

4 無限と点
 ここで篠原資明氏の「空海と日本思想」岩波新書より、「点と無限」という発想をかなり自己流に借用し、フランシスコの清貧の歩みに当てはめてみたいと思う。
 篠原氏は空海の最も中心的な教義であるこの宇宙を創造し、宇宙の中心である大日如来は無限大であるとともに無限小(点)であり、つまり、極小の世界(ミクロ)にも宇宙的極大(マクロ)にも存在し、この無限大と点を往還する。そして、その往還こそが大日如来の大きさであるという。
 空海は、大日如来とは自分の心のことであり、自分の心も無限大と無限小を行ったり来たりするといっている。篠原氏はこれを点無限と呼んでいる。

5 フランシスコの清貧と点無限
 これをフランシスコの内面に当てはめてみよう。
 ここに一枚の無限(空海的な意味で)に大きな画板(キャンバス)があるとする。そのキャンバスの上にはこの宇宙や大自然、人間が描き込まれている。しかし、その上に大きな私(自我)という無限大の円が描き込まれ、背景を覆い隠している。その自己という大きな円によってこの世界が見えなくなっているのである。
 そこで、この円をだんだん小さくしていくと、少しずつ背景が見えてくるようになる。つまり、自己を捨てていくにしたがって、神とこの宇宙世界はどんどん見えるようになっていく。さらに、この円を無限小に近づけば近づくほど反比例的に背景は無限に大きく広がっていく。童話的なたとえをすると、ゾウの目で見る世界からアリンコの目で見る世界への変化のようなものである。

 無限大を表す記号∞は、わたし(主体)とわたし以外のもの(客体)との関係をよく現している。始めは主体(上の線)が客体(下の線)を覆い隠すほど大きいが、主体が小さくなるにつれて客体が大きくなっていき、主体と客体が交わるところを境に、客体の方が大きくなっていく。

 この世界を覆い隠している自我という円を小さく、かぎりなく点に近づけていく、つまり、自己をかぎりなく捨てていく自己放棄、それがフランシスコのたどった清貧の道だった。そして、この自己放棄を妨げているものが、金銭であり所有物である。

6 清貧は内的で霊性的、存在の根源に関するもの
 再度、1.フランシスコの清貧で引用したタデエ・マトゥーラを引用する。
 「清貧とはただ金銭やものを所有しないという信仰の外的表現、つまり、物質的現実あるいは社会的現実の内にだけあるものではなく、もっと内的で霊性的な、存在の根源に関するもの」なはずである。

 改心前のフランシスコはチェラノのトマスが語っているように、かなり荒れた生活を送っていた。
 「彼は、虚栄にかけては同じ年頃の者の中でも群を抜き、悪行をそそのかす者、競って愚行を行う者とでも言うべき存在だった。」「見栄を張った派手な生活、、、くだらない冗談やはやり歌、肌触りの良い人目を引く衣装」「見栄っ張りの散財家」(第一伝記第一巻第一章)
とかなりの問題児だった。
 そのときの彼には周りの人々やこの大自然も、そして神も目に入らなかったであろう。自己がキャンバスを覆い塞いで、すべてを見えなくしていたのである。しかし、改心後の彼が選んだ道は放棄という清貧の道であった。彼は徹底した清貧という放棄、自己放棄によって、徐々に周りが、そして神が見えるようになっていった。見えるばかりでなく、感じられるようになっていった。

 清貧の生き方は彼の内面で、深い変革をもたらしていく。
 私を形作っているのは実は私ではなく、神からのものが私を形作っている事に気づいていく。神からのものは神に返し、人間からのものは人間に、それによってそこに現れてくるものこそ本当の自分である。かれは自分から神からのものを全部神にお返しした後に残るものは、悪と不幸だけという。それは生と死の渦巻く自分、これが自分の存在の根源であり、それはまた、被造物すべての姿でもある。だからこそ、被造物はわたしたちの兄弟姉妹なのだ。

7 兄弟姉妹である被造物
 清貧の生き方により、小さくなればなるほど神はかぎりなく偉大なものとなり、被造物も大きく輝いてくる。彼はかぎりなく極小(点)になっていくことによって、彼の感性は、人間も被造物もともに神に創られたものとして兄弟姉妹である、という思いと、人間も被造物もともに生と死によって定められているが故に兄弟姉妹なのだと悟らされていった。
このようにして、フランシスコの太陽の歌が生まれてきた。(「太陽の歌と曼荼羅」参照)

 フランシスコが神の創造された太陽や月、大空を賛美するというのはよく理解出来るが、それに続いて山や川、木や草花ではなく、それらを構成していると考えられていた火や水、
大地や風を賛美しているところに太陽の歌の特徴がある。しかも、それらの構成物を形成・統合しているのが生と死というのは驚きでもある。
 彼は自己を放棄することによって、被造物の本質にまで迫っていった、と見る事が出来るのではないだろうか。彼は捨てることによって、とてつもなく大きく深い神と神の世界を感じ取っていったのである。
 フランシスコの世界観は、生来の感受性の豊かさと清貧の道行きによって得られたものである。