自然界の

「生存の権利」とは

− 「奄美・自然の権利訴訟」に学ぶ −

 (2001.2.14)

HOME |  エコロジーの部屋



 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。
被造物は虚無に服していますが、
それは、自分の意志によるものではなく、
服従させた方の意志によるものであり、
同時に希望も持っています。
つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、
神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。
被造物がすべて今日まで、
共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、
わたしたちは知っています。

                   (新約聖書・ローマ人への手紙 8:19−22)


目  次



 その日の朝、いつものようにコーヒーを飲みながら新聞を眺めていた。かわりばえのしない日本の政治、ちっとも良くならない経済、その他もろもろの記事が続いていたとき、ふと目にとまった記事に吸い寄せられてしまいました。それは絶滅の危機にある動物を原告にした裁判の記事でした。動物の生存権について動物が原告となって訴えた。おとぎ話に出てくる物語ではありません。却下されはしたが、実際に裁判が行われたのです。
 生態系の中で人間と自然がどのようにして共に生きていくことができるか、自分なりに模索はしてきたつもりです。しかし、この訴訟のように人間と自然の関係をそこまで対等なものと考えたことはありませんでした。自然の権利を認めるという私にとって新しい世界観、衝撃の世界です。
 自分なりの自然との関わりを探していくために、この「自然の権利訴訟」の力をお借りし、自分なりに考えてみたい。そう思い、このページを立ち上げてみました。

 このような世界を見せてくれた訴訟を闘っている方々に深く感謝すると共に、これからの活動に心からのエールを送りたいと思います。なお、訴状と判決文は、最後の参考資料に記載しています。

1.「奄美・自然の権利訴訟」判決

 この1月22日に、鹿児島県奄美大島・住用村のゴルフ場建設をめぐって、「環境ネットワーク奄美」が県知事と開発業者を訴えていた「奄美・自然の権利訴訟」の判決がありました。これは95年に、ゴルフ場予定地に生息する希少野生動物、絶滅危惧種のアマミノクロウサギ、アマミヤマシギ、オオトラツグミ、ルリカケスを原告として訴訟を起こした、日本ではじめての自然の権利訴訟です。しかし、鹿児島地裁はこれらの動物が原告となることを認めなかったので、「アマミノクロウサギこと○○(人名)」という動物たちの代理人・代弁人という形で再提出し、弁論を展開してきました。

 山や川、動植物など自然自身が有している生存する権利、つまり、「自然の権利」は1970年代にニューヨークで、ある特定の「河」が原告として訴訟が行われ、それ以降、自然界のいろいろなものが原告となった訴訟が行われています。「奄美・自然の権利訴訟」の原告団もこれを根拠に「人間はその権利を代弁し行使する責務がある」と主張してきました。
 判決では「原告適格はない」、つまり、人間以外のものは原告になることはできないと訴えは却下されましたが、原告団が記者会見で「却下されたが、事実上は勝訴」と述べていたように、裁判長が「現行法がこれでよいのか」と疑問を投げかけ、国民的議論の高まりを期待する旨の意見を付け加えたことは、自然保護のために働いている人々への熱い応援歌であると同時に、現在も進行中の同様の、茨城県・霞ヶ浦のオオヒシクイ訴訟、長崎県・諫早湾のムツゴロウ訴訟、川崎生田緑地のホンドキツネ訴訟等に大きな影響を与えるものと思われます。
 なお、「原告適格はない」との判決を不服として、「自然の権利訴訟」は控訴されました

 奄美における自然保護活動、および、「自然の権利」についての詳しい意味や意義を知りたい方は、参考資料に載せている「奄美・自然の権利訴訟」の訴状と判決文をお読みください。目からウロコが落ちる(旧約聖書・トビト記11章)思いがします。ただ、裁判という性格上、法律用語が多く、ふだんなじみのない私たちにとって理解するのに難しいところがありますが、権利を守るためには法律の世界をさけて通ることはできません。それにしても、自然を守るために必死になって働き闘っている人々の姿には胸が熱くなり、難しい言葉もなんのその、一気に読んでしまいました(どこまで理解できているかは疑問ですが!)。

 私は山村で百姓をしている法律の世界にはまったくの素人ですが、ただ手をこまねいてみているだけではなく、素人は素人なりに素人の図々しさでこの問題に取り組んでみようと大それたことを考えました。また、キリスト教は自然破壊の一端を担っていると言われますし、私もそう思います。しかし、自然破壊を克服していくヒントもキリスト教の中に見出せるのではないか、という希望も持っています。もちろん、この自然を守り、自然と共に生きていくためにはキリスト教だけではなく、人類のいろいろな知恵を必要としていることは言うまでもありません。しかし、ここではあえて私個人の立場から、この問題を考えてみたいと思うのです。

ー目次に戻るー

2.「自然の権利」とは

 「自然の権利」とは「自然に法的価値を認め、それを人や環境NGOが代弁するという考え」(籠橋 隆明)、「野生生物や山、川などの自然物にも存在する権利があり、人間が自分たちの都合だけで自然を抹殺してはならないという考え方」(知恵蔵97)、あるいは、「人間だけでなく、生物の種、生態系、景観などにも生存の権利があるので、勝手にそれを否定してはならない」(加藤尚武「環境倫理学のすすめ」)、等と言われていますが、まだ、明確に定義されているわけではありません。ただ、訴訟においては「自然の権利」を自然の生存権と訴訟権に限定して用いられているようです。

ー目次に戻るー

3.「自然の権利」の意義

 「自然の権利」という概念は、21世紀のキーワードになるような気がします。20世紀の最後になって、環境問題や自然保護、エコロジーがクローズアップされ、自然と人間の共生が模索されるまでになりましたが、「人間のための自然」といういままでの発想から「自然と人間が共に」という発想へ変わるには、おそらく長い時間が必要なのかもしれません。しかし、自然破壊と環境汚染は待ったなしで進んでいます。長い時間が必要、などと言っておられません。
 この「人間のため(For)の自然」から「人間と自然が共に(With)」生きる世界を探していくために突破口となるのが、この「自然の権利」という概念だと思います。20世紀はまるで地球上に人間しか存在しないかのような世界でした。ようやくまた、人間と自然が共に生きることができる時代がきたのです。

 「自然の権利」で一番問題になるのは、やはり「理性も知性も備わっていない、だから自己主張もできない自然に権利はあるのか」ということでしょう。人間の社会でも、未成年者や子供は、大人にあるような権利が大幅に制限されます。まだ、自分に責任を持てないから、というのがその理由です。ならば、この自然界はどうなんだ、という疑問が出てきます。しかし、未成年者でも子供でも人間であれば誰もが持っている権利、基本的人権はあります。
 同じように、人間と自然も、「存在している」「生きている」という次元で、共通の権利を共有しているのではないかと考えることができます。

 自然にも生存の権利がある、と聞けば、「人間様が自然界に哀れみとして権利を認め、与えてあげよう」ということではないのかと考えてしまいます。しかし、自然保護や環境保護は、人間のお情けでできるものではありません。かえって、人間がこの大自然のお情けで生きているのですから。本来はこの自然界にたいして人間は弱い立場でしたが、いつからか人間は自然に対して優位にあり、自然は人間のために存在すると考えるようになってしまい、ここからあくことなき自然からの略奪と破壊が繰り返されてきました。人間と自然が共に生きていくために、いま人間と自然の関係を考え、再構築するときがきています。そのために、まず、自然が本来有していたさまざまな権利(生存権だけではなく)を認め、自然界と人間の連帯性を取り戻していく必要があります。

 「自然の権利」は人類社会を大きく変えていく力を持っています。それは、自然が人間に対してもの言わぬ(言えぬ)弱い立場にありますが、また、世界中には人間としての最低の権利さえ認められていない弱い立場の人々が大勢いることも悲しい事実です。民族紛争や内乱、クーデターで命を落とし、難民となっている人々、人種差別で不当の扱いを受けている人々、食糧不足、医薬品不足からいのちが奪われていく多くの子供たち。世界のどこかで多くの人命が失われていっても、豊かさの中で、指に小さなとげが刺さったほどの痛みも感じない。この世界にはまだまだ不正や不平等、貧困や飢餓、巨額の無駄な軍備費、などが渦巻いています。
 もし、人類が小さな弱い生き物に対して生きる権利を認め、共に生きる道を探していくなら、人間社会にも平和と愛への希望がもてるようになるのではないか、そして、この自然界の生き物たちによって人間の世界が救われていくのではないか、と思うのです。

ー目次に戻るー

4.「自然の権利」の問題点

 1.権利はどこからくるのかー自然法の今日的意義
 法学の世界に、「法源」(source of law)という言葉があるそうです。この「法源」とは「裁判の基礎となる命題」(碧海純一 「法と社会」 中公新書)のことをいいますが、ひらたく言えば、判断・裁決・決定するための根拠のことでしょう。この自然の権利訴訟において、「なぜ自然物が権利を有しているか」、あるいは、「なぜ自然物が権利を有していないか」、その「なぜ」の根拠となるものが法源です。
 
 まず、「権利」とは何か。「権利」という言葉はごくごくふつうに使っている言葉ですが、あまり厳密な意味を理解して使っているわけではありません。広辞苑によると「権利」とは、「一定の利益を主張し、また、これを享受する手段として、法律が一定の者に賦与する力」、あるいは、「あることをする、またはしないことができる能力・自由」をいうようです。つまり、早い話が、「力のある者が自分の利益を確保する」ためにそれを法律で規定し、これを国家が保証してくれるというのが権利です。
 ここで、その権利とは与えたり与えられたりするものなのか、誰がそれを与えるのかということが問題となります。すなわち、すべての権利は国家によって与えられるものなのか、それとも、基本的人権のようなものは生まれながらにして各自が持っているものなのか、という問題です。

 「奄美・自然の権利訴訟」の訴状と判決文を読むと、そこに自然法思想が色濃く反映されているのを感じます。自然法思想は紀元前のギリシャ・ローマ時代に起源を持ち、今日に至るまでヨーロッパ思想の根元をなしているものだといわれています。この「自然法」とは、移り変わり行くこの世界にあって、時間や空間を越えてすべての民族や国家、社会に普遍的に当てはまる不変の真理があり、それを自然法と言っています。国家法や憲法、個々人が生まれながらにして有している自然権の根元ともなるものです。
  「法」と言う言葉がついているので法律を意味しているように見えますが、本来は倫理道徳的原理、さらには存在そのものの原理を指しています。仏教でも宇宙の真理を「法」(ダルマ)という言葉で表してますが、本質的に同じことを言っているような気がします。

 自然法は中世では「神が定められた法」と捉えられるようになり、教会法や国家法の基盤となりました。近世においては「神が定められた」というよりも「自然の中に内在する真理」と捉えられるようになり、近代ヨーロッパ思想の中で展開されてきましたが、19世紀から20世紀にかけて自然法を取り巻く状況は大きく変わり、自然法は忘れ去られていきました。
 20世紀になって、二度の世界大戦を体験し、国家や民族、イデオロギーを越えた自然法の普遍的な価値観が求められるようになり、その実現を目指して国際連合が設立され、国連憲章、国連人権宣言等に自然法思想が取り入れられていきました。日本でも現在の平和憲法や基本的人権などに見られ、また、世界連邦思想やEUなどにも自然法思想が生きています。

 ただ、自然法に問題がないわけではありません。地球のある特定の場所で生まれ育ってきた自然法思想が、国や民族、時代を超えて永遠に普遍的であり得るのか、そして、それは自然物まで含めることができるのか、ということについてです。これから、おそらく自然との関わりを通して自然法の新しい研究と展開が期待されます。自然を含めなければ本当の意味での普遍性は生まれてこないでしょう。その意味で、自然の権利訴訟は画期的なことだと思うのです。

ー目次に戻るー
2 自然の権利を認めることはアニミズムになってしまうのか
 自然の権利を認めるとは、ある意味で人間と自然が対等の立場にあるということであり、そのためには自然に心や魂、意志がなければならないと考える人々がいます。というより、自然に魂があるからこそ、人間と対等、あるいは、人間を越えて神に近い存在なのだとする考え方です。このアニミズム的世界観はアイヌやアメリカインディアン、アポリジニなど先住民族の間に見られ、エコロジストたちに大きな影響を与えてきました。たしかに、ガイア理論、ディープ・エコロジー、生態学的全体論(ホーリズム)、あるいは、若者たちに絶大な人気のある宮崎駿の世界などにはその影響が見受けられます。それは人間と自然との心の交流、交感の世界を通して、現代人が見失しないつつある、あるいは、見失ってしまった人と人の心の通い合いを取り戻そうとする動きでもあるようです。
 日本でも、国家神道・天皇制神道ではなく、ムラの鎮守様神道に、アイヌや沖縄、世界の先住民族の間に見られるアニミズム的信仰が見られるといいます。(中沢新一)

 アニミズムは、動物・植物や山や川、湖沼、岩などに宿り、時には超自然的力を発揮したり、宿っているものを離れて独自に行動することもできる精霊を信じる信仰です。このアニミズム理論は19世紀末にE.B.タイラーが提唱したものですが、白人優位、キリスト教優位のヨーロッパ思想と進化論に立脚し、アニミズムを宗教進化の過程における初期の段階のもの、つまり、未開人の低級な宗教という位置付けでした。もちろん、宗教進化の最終段階は一神教で、その位置づけは今日に至るまで、そして、この日本においてもまだ主流をなしています。

 アニミズムは誤解され、低次元のものにおとしめられ、せいぜい素朴な童話の世界ぐらいにしか見られてきませんでした。しかし、動植物に関する研究や生態系の研究が進むにつれて、人間と自然とのアニミズム的な関わり(世界観・人生観)に新しい世界が広がってきました。
 たとえば、精神医学や老人介護の世界で動物や植物を用いた心理療法(アニマルセラピーなど)が行われるようになり、植物も人間の感情が理解できるらしいことが科学的に証明されたり、乳牛やハウス内の野菜や果物に音楽を聴かせたりする事が実用的に行われるようになってきました。いままで人間の衣食住を満たすものとして見られてきた自然が、人間の心や精神を癒すものとしてその価値と重要性がますます評価されていくことでしょう。

 自然物が人間とはレベルが違うにしても、心や魂(のようなもの?)を持っていると考えることはキリスト教では受け入れられないかもしれないが、決して聖書からかけ離れているわけではない。肉体と精神を分離してしまったヨーロッパ思想こそ問題なのです。
 「自然の権利訴訟」は人間社会という狭い世界の中で窒息しそうになっている私たちに、自然と共に生きることによって本来の心の豊かさを取り戻す道を見せてくれたように思います。

ー目次に戻るー

  参考資料

 訴状と判決文の全文を別項に掲載しました。「自然の権利」を知る上で、この訴状と判決文はすばらしいテキストとなるものです。長文ですが、ぜひ、ご一読をお勧めします。なお、法律文に慣れ親しんでいない方のために少しでも読みやすくするため、文章の内容には触れないで、レイアウトに手を加えました。無修正の文をお読みになりたい方のために、オリジナルも掲載しています。

 以下のレイアウト版は、「自然の権利」ホームページより引用させていただいたオリジナルに少々手を加えたものです。
 訴状と判決文の掲載を許可してくださった「自然の権利」ホームページに感謝いたします。

 ・ 奄美自然の権利訴訟訴状 (1995.2) ー レイアウト版
    ゴルフ場建設予定地に生息する生き物たちを原告に据えた経過や、自然の権利とその法的根拠など、「自然の権利」を知る上で貴重な資料である。

 ・ 奄美・自然の権利訴訟判決文 (2001.1.21) ーレイアウト版
    「自然の権利」が抱えている法的限界と法的問題点など、現時点における「自然の権利」が抱えている問題と限界についてわかりやすく述べている。

  ・ 「奄美・自然の権利訴訟」判決の意義について ー 弁護士 籠橋 隆明(弁護団代表) 

ー目次に戻るー