第六章 エコロジカルな霊性 

233−246


Y 秘跡のしるしと祭儀性

233 遍在の神
  天地万物は、遍在する神において真の姿を開示する。
  ひとひらの葉、一本の獣道、一滴の露、貧しい人の顔、− そこに神秘がある
 魂の中に居られる神の業に触れようと、外から内へ向かうばかりでなく、
  あらゆる物事の中に神を見出す。

 この233は、東洋と西洋の思想を結びつけていくような箇所である。
 最初の一行を、英文からではあるが直訳すると、「宇宙万物は、宇宙万物を満たしている神の内で見えてくる」といったところか。英文が正しく原文(スペイン語)を翻訳しているとするならば、この言葉は、真の姿(イデアー理想の世界)というプラトン的二元論ではなく、そのもの自体がそのもの自体となる、つまり、神の中で宇宙万物は宇宙万物となる、自己は自己となる、神の中で私は私となる、と解釈される。つまり、現実の世界が、神の内でこそ、そのまま実在の世界となるのである。
 西田幾多郎は、目に見えるものの奥底にある目に見えないものを根本的な実在と考えているが、それと通じるものがある。
 次の言葉も、神を求めて魂の中に入り込んでいくばかりでなく、被造物一つ一つの中におられる神を求めて、私の中から外にある被造物の中に入っていかなければならない。ここでも、内と外という二元論の克服が見える。
 いうならば、聖堂から出でよ、聖櫃から出よ、聖書から出よ、そこには神に満たされた大自然(小自然でも、一本の草でもいい)がある。神を小さな聖堂から解放する叫びである。
 理想と現実、精神と物質、魂と肉体、内と外、といった二元論を超えた世界がここで見られる。これは東洋、とくに日本の禅仏教の思想に近いものがある。
 

234 畏敬の体験
 この世界の実在や経験の中におけるすべての善いものは「神において見いだされる、というよりむしろ、これらの優秀性のおのおのは神である、と言った方がよいだろう」(十字架の聖ヨハネ 「霊の賛歌」)
 これは、この世界の有限な物事が実際に神聖だからというのではなく、彼が、神とすべての存在との間にある親密なつながりを経験し、「神が自分にとって万事であると体験する」からである。

 
この節は神秘主義色の強い、非常に難解な箇所である。
 この節を理解するのに少しは助けになるだろうと思われるのは、神の霊(聖霊)という大海原に深々と沈められている宇宙を思うといいだろう。相互内在、相互浸透の世界である。
 
235 秘跡
 諸秘跡は、神が<自然>を<超自然的ないのちを仲介するもの>へと高める、特別に恵まれた手段である。
 キリスト者にとって、物質世界のすべての被造物が自らの本当の意味を見出すのは、受肉したみことばにおいてである。それは神の独り子は、人となって物質界と結ばれ、そこに決定的な変化の種を蒔かれたからである。

 「すべての被造物が自らの本当の意味を見いだすのは、受肉したみ言葉においてである」という一文は、233と同じ意味である。即ち、三位一体の神による創造の内で、初めて造られたものそれぞれが見えてくるのである。これも西田幾多郎のいう、主観と客観が分かれる前の経験、純粋経験であり、行為的直感の世界なのかもしれない。


236 聖体の秘跡
 創造されたすべてのものが最も高められるのは、聖体においてである。
 主は、受肉の神秘の頂点において、ひとかけらの物質を通じて、わたしたちの内奥にまで達することを望まれた。
 この世界で主を見いだせるよう、主は上からではなく、内から訪れてくださる。

 聖体において充満はすでに実現されている。
 その充満は万物のいのちの源であり、愛と尽くすことの出来ないいのちとがあふれ出る泉である。

 全宇宙は、聖体の中に現存される受肉した御子に結ばれて、神に感謝を捧げる。
 実に、聖体は宇宙的な愛の行為そのものである。
     聖体は、天と地を結び
         被造界全体を抱き
         すべての被造物を貫く。

 神のみ手から生まれ出た世界は、全被造物が喜びに溢れ、一つになって礼拝することによって神に帰る。

 私はこの節に、西田幾多郎の参禅に裏付けられた日本的思想に思いが行く。ここでは内と外、一と多、永遠と時間という二元論を超えたものがみられるからである。
 神の外(神に内外の境はない)ではなく、神の内に創造された宇宙万物。それはあたかも神という大海原に沈められた海中生物のよう。海の水はそれぞれの中にも浸み込んでいる。永遠(神)の中の一瞬(被造物)。無限(神)の中の一点(被造物)。一瞬は永遠の中に溶け、一点は無限の中に溶け込んでいく。十字架の聖ヨハネの「霊の賛歌」の世界である。
 私たちはそれをミサの聖体拝領の時、特に強く体験する。創造の神と被造物が一つになるときである。

237 安息日
 主日は、私たちが神との、自分との、他者との、世界とのかかわり(関係)を修復するための日である。
 主日は復活の日、新しい創造の「第一の日」であり、その初穂は、主の復活した人間性、全被造物の最終決定的な変容の確約である。

 主日は「神のもとにおける人間の永遠の休息」を告げる日でもある。
 キリスト教の霊性は、休息と祝祭の価値を統合する。
 休息はより広い視野を持てるよう、わたしたちの目を開かせ、他者の権利に改めて気づかせてくれる。
 それ故、感謝の祭儀を中心に置く休息の日は、週全体を照らし、自然や貧しい人々のことをよりいっそう心にかけるよう駆り立てる。

 安息日は創造の完成である。神は創造の完成を祝い、喜び、祝福し、聖別する日として、安息日を定められた。しかし、そのような意味での安息日はほとんど顧みられなく、安息日は休みの日としか、理解されていない。
 私たちは、安息日を、創造の完成の日と休みの日とに分けて考えなければならない。

Z 三位一体と被造物間の関係

238 三位の神による創造
 御父−あらゆるものの究極の源泉
    あらゆるものの愛と自己を分かち合う根拠
 御子−御父の写し−万物は御子を通して創造された。
    受肉によって、ご自分を大地と固く結ばれた。
 聖霊−天地万物の最も深いところに、親密に現存し、活力を与え、行くべき道を示す。

 世界は、唯一の神としての三位の位格によって創造された。
 三位のペルソナは、それぞれの固有の仕方で、共同のみわざ(創造)を行った。

 近年、特にこの二十年ほどの間に大きな進展を見せた神学に、三位一体的創造論と生態論的創造論がある。神と被造物との関係を三位一体的に論じる三位一体的創造論。神と被造物と人間の関係を説く生態的創造論。そして、その土台をなす聖霊論的創造論がある。
 これら創造論の特徴は、交わりと分かち合いの三位一体的性格、神と被造物と人間が支配的ではなくお互いに網の目のような平面的につながっている生態論的性格、相互内在、相互浸透によって深く結ばれている聖霊論的性格がある。
 私はそれに、ヨーロッパ的二元論を超え、深く禅的世界とのつながりを説いてくれる西田幾多郎の純粋経験から絶対矛盾的同一性の思想を付け加えたい。

239 被造物の中に、三位一体の神が見える

 三位一体の交わりである唯一の神を信じるキリスト者にとって
    全被造物が、明確に三位一体的な徴を付けられていることを知る。
                ↓
    三位一体の神が、自然の中に識別出来るものとして、映し出されている。
                ↓
    どんな被造物も、明確に三位一体的な構造を内包している。
                ↓
           それは、容易に観想出来るほど、現実的なもの
           三位一体性を鍵にして、現実を読み解く。

 私たちが通常唱えている信仰宣言は、「天地の創造主、全能の父である神を信じます」で始まる。この言葉に続く御子については、救いの神であって、創造の神ではない。創造の神はおん父だけ、である。
 創造の神は現代に至るまで、絶対的主体の超越的唯一神として捉えられ、神と被造物は全く違うもの、つまり、神の脱世界化と被造物の非神話化が推し進められていった。
 いま三位一体的創造論が見いだしていった神と被造物の関係は、三位一体の姿,交わりそのものである。神は三位一体の有様である交わりを、ほかのものとも持ちたいと被造物をいお造りになった。
 神と被造物の関係、それは交わりである。そして、それは被造物一つ一つの中でも、それが原子や分子のようなミクロの世界から、私たちの草一本、虫一匹のような生きとし生けるものの世界、そして、想像を絶する宇宙とというマクロの世界に至るまで、造られたものすべては父と子と聖霊という交わりの姿を現している。私たちは、造られたもの、一つ一つの中に三位一体の神を見るのである。

240 三位一体の神と生態系
 神である位格(ペルソナ)は、自存の関係にあり、
 神をモデルにして創造された世界も、網の目の関係(生態系)にある。

 被造物は神へ向かうもの→あらゆる生き物は他のものへと向かう性質がある。
  密かに織り込まれた永続的なかかわり(関係ー繋がり)が宇宙の至る所で見いだせる。

 あらゆるものは繋がり合っていて(網の目)、これが三位一体の神秘から流れ出る地球規模の連帯の霊性を育んでいく。

 エコロロジー(生態学)が、現代の創造神学に与えた影響は計り知れないものがある。
 お互いに関わり合い、繋がり合っている。これは三位の神の姿であり、神に似せて造られた被造物の姿でもある。人間は万物の霊長として被造物の最上位にあるのではなく、人間も被造物の一員、平面的な網の目の一つである。
 モルトマンは、創造論は生態的観点からすると、主観・客観の区別を伴う分析的思考から、新しいコミュニケーション的・統合的思考を学ぶよう努めなければならない、という。
 被造物は、神を発見し、神と共に生きるための素晴らしい場である。

[ 全被造物の女王

241 母であり女王であるマリア
 母マリアは傷ついたこの世界を、母としての愛情と痛みをもって、心にかけてくださる。
 天に挙げられたマリアは、全被造物界の母であり女王である。
 栄光を受けたマリアのからだにおいて、被造界の一部がその美の充満に達した。

  ミサ第4奉献文は、「その国(神の国)で、罪と死の腐敗から解放された宇宙万物ともに、主キリストによって、あなたをほめたたえることができますように」という祈りで締めくくっている。
 「罪と死の腐敗から解放された宇宙万物」という表現は、母であるマリアの上に見事に表されている。マリアのからだ(私たちもそうであるが)は宇宙万物と同じ物質でできている。「栄光を受けたマリアのからだ」はまた、栄光を受けた被造物の姿でもある。
 
242 聖ヨセフ
 聖ヨセフも、気遣う心の表し方を教え、神がわたしたちに託されたこの世界を守るために、寛大さと優しさとを持って働くよう、わたしたちを鼓舞する。

\ 太陽の彼方に

243 終わりの時
 終わりの時、わたしたちは神の美しさに出会い、また、尽きることのない充満をわたしたちとともに享受するであろう宇宙という神秘を、感嘆と喜びのうちに読み解くことが出来るだろう。

 永遠のいのちとは、輝くばかりに変容させられたそれぞれの被造物が、
           自分に相応しい場が与えられ、
           全面的に開放された貧しい人々に与えるべき何かを有している、
     このような畏敬をともに味わう経験をいう。

 「尽きることのない充満をわたしたちとともに享受するであろう宇宙」
 「輝くばかりに変容させられたそれぞれの被造物」
 地球(宇宙)を愛し、地球汚染や破壊を憂い、それを防ごうと心を砕いている人々にとって、この回勅の言葉はなんと、神々しく、歓喜に満ちた言葉であることか。
 永遠のいのち、今のこの瞬間も永遠の今である。今のこの時を永遠として生きていく、それが「永遠のいのちとは」の文章である。今と永遠が合体した(今と永遠という二元論を超えた)人生である。それはまた、三位の神のように、交わりと分かち合いの生き方であり、神の美しさを映し出す被造物の姿である。

244 この家の責任
 終わりの日まで、託されたこの家の責任を、ともに引き受ける。
                ↓
   すべての被造物と一つになって、この地を旅しながら、神を探し求める。

 そのために、神から託されたこの家(地球)への責任をともに担っていこう。
 ヨハネ17章では、「一つになるように」という祈りが5回も繰り返されている。私たち(父と子と聖霊)が一つであるように「一つであれ」とのキリストの願いは、人間だけに向けられた言葉と思っていた。しかし、教皇はそれを全宇宙にまで広げる。今の私たちの感覚からいうと、地球上の生きとし生けるものとともに、ということだろう。「ラウダート・シ」の原点である。

245 いのちの主はこの世界のただ中に
 わたしたちに惜しみない献身と自分のすべてを差し出すよう言われる神は、歩み続けるために必要な光と力を与えてくださる。
 わたしたちを深く愛してくださるいのちの主は、この世界のただ中にいつもいてくださる。
 主はご自身を地球と決定的に結びつけ、その愛が、わたしたちが前へと向かう新たな道を見出すよう、励ましてくださる。

 三位の神の本質は交わりと分かち合い。 その神の似姿として造られた私たち人間は、その交わりと分かち合いによって神の似姿に近づいていく。人間同士はもちろんのこと、被造物とともに交わりと分かち合いを生きていく、そこに神はおられる。この世界のただ中に、いつもいてくださる。

             *    *    *

246 二つの祈り
 ・全能の創造主である神を信じるすべての人とともに捧げる祈り
 ・被造界への責任を引き受けることが出来るようにと願う、キリスト者の祈り