被造物界と共にある信仰

被造物との新たな関係を求めて (2)

 (11月22日)

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1.神の似姿  /  2.地の支配  /  3.被造物の救い  /  4.被造物との新しい関係を求めて


はじめに

 「被造物界の欠如したキリスト教では、聖書やキリスト教神学、そして、ヨーロッパ思想史から、どのようにして私たちの信仰や発想から神と人間以外のものが欠落していったかを簡単に見てきました。いまや資本主義や経済至上主義はその行き着くところを知らず、世界中に自然破壊と環境汚染を広げています。日本とて例外ではなく、世界有数の自然破壊と環境汚染国となっています。
 結果的には自然破壊や環境汚染に大きな影響を与えてしまったキリスト教が、今、真剣に被造物との関わりを探し見いだしていかなければ、教会の使命は終わってしまうことになるでしょう。
 
私は聖書学者でも神学者でもありませんが、大地と共に生きようとしているものがどのようにして被造物界と共に生きることができるのかを、思うところ、感じるところに従って述べてみようと思います。

1.神の似姿
 創世記の1章によると、神は人間をご自分に似せてお造りになり、地の支配を人間に任された、とあります。

 
「神は言われた。
 『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』
  神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
  神は彼らを祝福して言われた。
 『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」(創世記 1:26-28)

 
創世記のこの箇所から、「人間は神の似姿だから地を支配する」ということと、「地を支配することによって神の似姿になっていく」という二つのことを読みとることができます。
 ただし、ここで問題となるのが「神の似姿」と「地の支配」の意味です。

イ. 三位一体のような共同体として造られた
 三位一体とは、父と子と聖霊がそれぞれ固有のアイデンティティを備えた存在でありながら、唯一の神であるという難解な教義で、教会は二千年たってもまだ誰でも分かる優しい言葉で説明できないでいるほど難解なものです。平たく言えば、神は父と子という親子の関係で、親子の間に流れる愛、それを聖霊といっています。つまり、神は家族なんですね。そして、その家族を満たしているものは愛です。
 人類はその神のような家族として造られました。国境、民族、肌の色、言語、あるいは、家柄や職業、学歴や財産のあるなしを越えてみな一つの家族なのです。現在、人類はさまざまな理由で分裂し対立しあって生きていますが、それでも希望を失わずに一致を目指して努力することこそ、そして、愛に満ちた人類家族を造っていくことこそ神の似姿として造られた人類の使命なのです。

 しかし、神の言われる共同体とは人間だけのことなのだろうか、という疑問がわきます。人間も人間以外の被造物も、神によって造られたという意味ではみな同じ被造物です。みな神が「よい」と言われ、神に愛されている被造物です。アメーバーやプランクトンに至まで、生きとし生けるものは皆、家族の姿をとっています。そればかりではなく、原子の世界も、また、宇宙の恒星と惑星の関係も家族のような姿を見せています。神がお造りになったものは皆、神の性質をいただいているのですね。
 今、エコロジー的な世界観が広がりを見せ、人間を含めてこの自然界は「相互補完関係」にあり、互いに支え合い、助け合っているということが理解されるようになってきました。大きく深く豊かな世界です。人間は人間だけで生きているのではない、この明瞭な事実は21世紀にはさらに深められていくことでしょう。
 私たちは人類家族というより、「被造物家族」を目指さなければならないのではないかと思っています。この点については、後でパウロのロマ書のところでもう一度考えてみましょう。

ロ.神の子キリストに似せて造られた
 人類全体としては三位一体(神の家族)に似せて造られましたが、一人一人としては神のおん独り子イエス・キリストに似せて造られました。
 イエスは「私は神の国の福音を述べ伝えるためにきた」(ルカ 4.24)と言っておられますが、この神の国の福音とは神の家族の精神・心のことです。神の家族とは神と人間、そして、被造物をも含めた大きな家族を言うのだと思っていますが、人間は自己中心的なところがありますので、神と人間だけの世界だと思いこんでいます。
 福音のエッセンスと言われている山上の垂訓(真福八端)など、なぜ、人間だけに狭めてしまうのでしょうか。被造物全体を含めて読み返すと、大きな世界が見えてきます。たとえば、次のように読み替えてみるとどうでしょう。

  「被造物に対して心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
 被造物を悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
 被造物に柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
 被造物の義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
 被造物に対して憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
 被造物のように心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
 被造物界の平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
 被造物の義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
 被造物とわたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ 5.3-12 参照)

なにやら自然保護のために闘っている人たちの姿が見えてくるようです。

 イエスは神の国を説明するのに、この自然界のいろいろな姿を用いておられます。神は創造の時、被造物にご自分と神の国の姿を刻み込まれました。被造物は神からのすばらしいメッセージです。

2.地の支配
 「地の支配」は長い間、ひどく誤解され続けてきた言葉です。
 創世記にはいくつかの口伝ルートがあり、それらがまとめられて文字化されたのがバビロン捕囚から捕囚後(紀元前6世紀)と見られています。天地創造はそれらの口伝ルートの一つ、「祭司伝承」によるものと考えられています。
 祭司伝承では、「支配」は「奉仕」を意味しています。ー(新共同訳 旧約聖書注解T 日本基督教団出版局) 神は宇宙万物をまったく自発的に愛のうちに創造されました(創造のプロセスは宇宙科学の進歩によってじょじょに明らかにされていくことでしょう)。愛そのものである神が創造されたものをごらんになって「よい」と言われたとありますが、造られたものが神の愛を十分に反映し、愛に満ちたものであるからです。それ故、「支配」という言葉は、「愛する」「奉仕する」という意味になります。
 しかし、残念ながら人間は「支配」を権威とか権力という意味に受け取ってしまい、それは現在まで変わっていません。
 イエスは言葉と行い、ご自分の一生をかけてこの「支配」というものを福音化していきました。つまり、支配するとは愛すること、仕えることであり、それを十字架上で身をもって示されました。

 以上のことから、神が人間に「地を支配せよ」と言われた意味は、「神が造られたものを愛し、それに奉仕せよ」ということなのです。

3.被造物の救い
 「被造物も救いを待っている」という言葉を聞くと、救いは人間だけのものと思っていた人々には奇異に思われるかもしれません。しかし、次のパウロのロマ書を読んでみてください。

  「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。
  被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」(ロマ 8:19-22)

 こんな大切な箇所が、歴史の中で信仰から被造物が排除されていくと共に、この箇所も忘れ去られてきました。そのために人類を含めて被造物はますます虚無と苦しみに陥るようになったのです。ロマ書のこの箇所は、創世記のあの箇所との関連で、その意味がよく見えてきます。

 人類はキリストの十字架によって罪が許され、「神の子」となる恵みを受けることができました。「神の子」であるとは、私たち人類が「神のもの」であると同時に「神のようなもの」であることを意味しています。しかし、罪は許されても罪(自己中心−エゴイズム)の傾きはなくならず、支配は権力だとばかりに争いや戦争、民族差別はなくならず、環境汚染や自然破壊が絶望的な早さで進んでいる、このような状態で被造物は前にもまして苦しんでいます。
 神の子となるよう召されていながら、愛と奉仕の道より自分のことにしか目が向かない人類。いつになったら人類は神の子として被造物を救ってくれるのだろうか、被造物はまだ希望を捨てずに神の子たちの出現を待ちわびている、というのです。
 「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」
 この「共に」とは、人間を含めてそれぞれの被造物がお互いに苦しみ合っているという意味です。この人間と他の被造物の連帯性、相互補完性を、現代の新しい言葉で「エコロジー」とか「生態系」と呼んでいます。

 ここで私たちは、被造物を愛し奉仕することによって、つまり、本当の意味での地を支配することによって神の子に成長していくことができる、ということに気づきます。
 私たちは神の子だから被造物を愛し奉仕し、被造物を愛し奉仕することによって神の子となっていくことができるのです。

4.被造物との新しい関係を求めて
 人間は霊魂と肉体からできていて、肉体は滅んでも霊魂は死なず、霊魂は天国へ行くと長い間考えられてきました。でもこれは聖書の教えではなく、ギリシャ思想の影響です。神は「人間」を造られた。「人間」は人間としか言い様のないもので、人間を霊魂と肉体に分けられるものではありません。人間が死ぬとは、すべてが死んで無になってしまうのです。しかし、神はイエスを復活させることによって、私たち人類にも復活があることを示してくださいました。人間が死んで人間として復活させてくださる、これは私たちの信仰です。私たちの肉体はあってもなくてもよい存在ではありません。私そのものなのです。

 目に見える世界、被造物の世界は虚無や空の世界ではありません。罪(エゴイズム)にまみれた人間にとって、その業(ごう)から離脱していくために空とか無と観じることも必要かもしれません。しかし、それは人間の勝手で、だからといって被造物が無でも空でもありません。
 
 肉体や目に見える世界を軽視する信仰は間違っています。神から造られたすべてのものが神の家族の一員として、神の愛の中に包み込まれています。私たち人間も被造物を愛し、奉仕していくことによって似姿である人間の原型・キリストに近づいていくことができます。私たちと相互補完的に深く結びつけられている被造物は、私にとってもうあってもなくてもいい存在ではありません。私にとって私の一部なのです。

 アシジの聖フランシスコは「太陽の賛歌」の中で、被造物を私の兄弟、姉妹と呼んでいます。この太陽の賛歌については、項をあらためて述べたいと思っています。