被造物界が欠如したキリスト教

被造物との新たな関係を求めて (1)

 (11月10日)

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はじめに / 歴史的背景 / 神の恵みと祝福 / 地の支配  


はじめに
 私は信州の山村で農業を始めて4年目になります。今でこそ教会内でじょじょに認められてきましたが、それでも「なんで神父が農業を」とあまり評判は良くありません。今までの教会のあり方からいうと、神父と農業はつながらないのです。
 日本において教会はほとんど都市を中心に発展し、農業や農村にはあまり目を向けてきませんでした。土着化と言いながら長崎やいくつかの例外はありますが、教会は農漁村に根を下ろすことができず、現代もっとも大きな関心が持たれている環境汚染や自然破壊の問題についても関心は薄く、教会としてそれほど対応しているわけではありません。都市は人口密度も高く、また、農村のように古い慣習にとらわれていないので宣教するのに好都合でした。日本に入ってきたキリスト教、とくにカトリックは大地とのつながりが希薄なところがありました。それはヨーロッパ・キリスト教の持っている性格と、司祭や修道者の養成が大きな神学校や修道院で恵まれた生活をし、貴族的な養成を受けてきたところに原因があります。
 戦後の宣教を見る限り農村や農業にほとんど目が向かず、これは日本教会だけの問題だけではなく、ヨーロッパでも同じような状況です。それはヨーロッパ・キリスト教が長い歴史の中で、信仰から被造物が欠落していったからに他なりません。今、環境汚染や自然破壊を前にして、自然界と人間の関係があらためて問われています。なぜ、信仰から被造物が欠落してしまったのか、それを問いかけながら、信仰と自然界の新たな関係を探ってみたいと思います。

・越えがたい断絶 
 聖書は私たち人間が罪のため、神と人間、人間どうし、そして、人間とこの被造界が互いの親密なかかわりを失ってしまったと語っています。実際、この親密な関係の喪失は人間社会のあらゆる所に分裂と断絶をもたらし、人類の不幸と苦しみのもっとも根本的な原因となってきました。現代も国家間や民族間はいうにおよばず、家庭や学校、職場、個人間にまで、そして、小さな子供たちにまでその断絶感はしみこんできています。

 20世紀は度重なる戦争や内乱、最終兵器の開発、などこの断絶が極限にまで行ってしまったような気がします。また、科学が驚異的に発達し、経済活動もますます活発になりグローバルなものになってきました。人類の幸福を約束し発展させるべき科学や経済の発展が、貧富の差をさらに広げ豊かさを享受しているものの、人間関係を豊かにするどころかかえってそれを崩壊させ、自然破壊や環境汚染を引き起こしているのです。

・人間同士の断絶の底には被造界との断絶が横たわっている
 断絶の原因はさまざまあるでしょう。しかし、それをつきつめていくと、結局は自分自身が断絶し、自分と自分を生かし、支え、守っているこの被造界との断絶に行き当たります。
私という存在が根底のところで分裂しているのです。この分裂や断絶には、残念なことに宗教も深く関わっています。人間の業といえば業かもしれませんが、長い歴史の中でどうしてそうなっていったのか考えてみることにしましょう。

1.歴史的背景
1−1 聖書の世界
 旧約聖書は、イスラエル民族がバビロン捕囚から解放されて帰国した後(紀元前400年頃)に書かれたと言われていますが、その時代も今も人間は太陽や月、山や海、それに動物などを神に祭り上げて礼拝するということが行われてきました。創世記はこの宇宙の神話化に対し、神の創造をもって神と被造物を根本的に切り離していきました。神であるものは神しかおらず、この宇宙は被造物として神とは根源的に違うものであることをはっきりさせ、被造物は決して神になり得ないことを確証したのでした。
 神と被造物の分離という非常に純粋な一神教的信仰は、汎神論やアニミズムからの決別として、今から4千年の昔にあっては画期的なことでした。このことは後のキリスト教やイスラム教に大きな影響を与えていくことになります。

1−2 中世から近世
 中世にいたってキリスト教神学は、アラビア経由で入ってきたプラトンやアリストテレスのギリシャ思想によって体系づけられていきます。中世の偉大な神学者トマス・アクイナスは、そのものをそのものたらしめる普遍的な概念を形相(Forma)と呼び、その延長上にあるものを質量(Materia)と名付けました。
 人間でいうなら、「人間」という普遍概念(形相)と「肉体」という個別的なもの(質量)、簡単に言うと、人間の霊魂(形相)と肉体(質量)です。この考え方は霊魂は上なるもの(神の世界)をあこがれ望み、肉体はそれをじゃまするというプラトン的二元論と結びつき、肉体的なもの(被造物)を軽蔑し、軽んじるという傾向を生みだしてしまいました。

1−3 近世から現代
 18世紀にいたって、デカルトはこの形相と質料を、考える自分(精神)と考える対象としての自分(肉体)として深め、精神と肉体を分離させてしまいます。つまり、「肉体なき精神」と「精神なき肉体」ー肉体を自然と置き換えると、「自然なき精神」と「精神なき自然」に分離してしまったのです。
 「自然なき精神」、つまり、宗教や神学、哲学、文学や法律、経済などいわゆる人文科学は自然という実体を除外し、一方、「精神なき自然」は自然科学として精神や人間の心を失い、果てしなき科学技術の追求により原爆・水爆や自然破壊・環境汚染にまで至っています。

・被造物の欠如した現代神学
 現代神学もこのデカルトの影響を色濃く受け、精神と自然界を切り離していきました。旧約聖書の創世記は歴史的事実というより、あるメッセージを伝えるためにバビロン地方にあった神話を借用したと解釈され、創世記から「創造」という自然的出来事を排除し、神がイスラエル民族を救ったという出エジプト記の導入部として考えられるようになりました。神の創造は歴史的出来事というより、人類の救いという記述の中で理解されるようになったのです。聖書は自然科学から解放され、もっぱら救いだけを考えるようになり(とくに、ガリレオ・ガリレイ以降は)、自然科学も聖書から解放されておのが道を歩むことになりました。
 第二次世界大戦後の神学は実存哲学と解放の神学に大きな影響を受けましたが、自己と神との実存的出会いには人間以外の被造物の入り込む余地はなく、また、解放の神学も人々の奴隷的状態からの解放という、せっぱ詰まった課題が先行し、自然との関わりを考える余裕がありませんでした。「自然なき救い」と「救いなき自然」は現代の大きな問題です。
 人間と自然との関係の神学が、21世に大きく進展するよう願っています。


2 神の恵みと祝福
 中世キリスト教の霊魂と肉体、デカルトの精神と肉体、カントの純粋理性優位、そして、ドイツ神学が強調したパウロの「義人は信仰によって生きる」という信仰の優位、等によって、信仰の世界から人間以外の被造物は追い出されてしまいました。ドイツの有名な神学者ルドルフ・ブルトマンは「(神と人間の)救いの歴史において人間以外のものの入り込む余地はない」と言い切ってさえいます。
 「自然が欠如した救い」、そして、「救いが欠如した自然」。ここに私たちの信仰のあり方や自然破壊、環境汚染、そして、人権侵害や戦争の原因があります。

世の終わりまで続く恵みと祝福
 人間というものは、過去の出来事(十字架と復活)を信じるだけ、というほど純粋ではありません。人間は生きています。毎日、毎日いろんなことがあり、その数だけの喜びや苦しみもあります。信仰として十字架と復活を信じていても、毎日、襲ってくるいろんなことに対処して生きていかなければなりません。そこに悩みや苦しみがあります。
 そのような人間を力づけ励ますために、神は恵みと祝福を送ってくださいます。救いは一回限りの出来事ですが、恵みと祝福は一瞬一瞬のものです。
 「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ 5.45)

・信仰と生活の分離
私たちは神の祝福と恵みなしに生きていくことはできません。しかし、私たちの意識のどこかで、生きていくためには恵みと祝福は必要であるが、それは救いのためには必要不可欠なものでない、と思っているところがあります。ここに信仰と生活の遊離があります。信仰と生活を切り離して生きているのです。
 そもそもカトリック教会の中には、修道生活を最上のものとする意識があります。結婚生活よりは独身生活の方が清く、金や衣食住にとらわれない離脱した生活の方が善いと考えている。とくに日本では禅宗系の仏教思想の影響か、このような考え方が教会の中で無意識の中にあるようです。人それぞれの生き方の問題で、どちらが善いとか上だなどと比較できるものではないのですが、プラトニズムやフランス系宣教師が持ち込んだジャンセニスムの影響でしょうか。
 衣食住や夫婦行為など、汚れたもの、はしたないものとして(うわべでは)忌み嫌っていく、これはこの恵みをくださる神と大自然への冒涜だと思うのですが。どこかに矛盾した信仰生活が、本音で生きようとする若者たちからそっぽを向かれているのが現状ではないでしょうか。
 「信仰の欠如した生活」と「生活の欠如した信仰」

3.地の支配
・旧約聖書の地の支配
 創世記では、「地の支配」という記述が1章に二度でてきています。
 「 神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』
 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
 神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』
 神は言われた。『見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。』」(創世記 1:26-29)

 神は人間がご自身のかたどり(似姿)だから、人間に地の支配を任されたのです。しかし、人間は原罪によって神の似姿であることを失ってしまい、それと共に地の支配をも失ってしまったのです。
 キリストの十字架によって罪は許され救いにあずかるものとされるようになりましたが、罪の傾向(業)はそのまま残っています。そのため、人類は自然から豊かな恵みを受けると共に、時にはその凶暴ともいえる災害に苦しんできました。
 中世以降、人々は「人間が神の似姿」だから地を支配するというより、地を支配することによって「神の似姿」に近づこうとするようになってきます。「神の似姿だから地を支配する」ことも、「地を支配することによって神の似姿へ」というのも、言葉としては正しいと思います。しかし、問題は「神の似姿」と「地の支配」の意味を取り違えてしまったことにあります。


 
イ 「神の似姿」を偉大なもの、優位にあるものという権威主義的にとらえてしまった。
   人間は自然に対して優位にあるもの、他の被造物とは根本から違うもの、自分たちも被造物の一員であると考えることは人間の品位をおとしめることになると考え、自分が被造物であることを忘れてしまいました。さらに、キリスト者は非キリスト者を劣ったもの、野蛮なもの、教え導いてやらなければならないものと考えてしまいました。ここから、被造物への傲慢な態度、民族差別が生まれてきました。

 
ロ 地の支配、すなわち、自然を支配し、未開人を征服することは神のお望みだ、と考えた。
 
 ヨーロッパは狭く小さな国々がひしめき合っている地域で、そこでの領地拡大には限界がありました。外に領土拡大の欲望を見いだしていくしかなかったのです。被造物や非キリスト者に対して優越感を抱いていたヨーロッパ人にとって、「地を支配せよ」との神のご命令により、被造物や非キリスト者の国々を征服し、支配していくことは理にかなったことでした。なにせ、自然開発、技術発展、植民地主義に神のお墨付きをもらったのですから。
 「地の支配」を自分たちに都合の良いように解釈してしまった結果、
16世紀以降、この500年の間に被造物界と人間社会は破壊と破滅への道をつき進んできました。そして、現代では、その神さえも欠落し、征服と支配だけが一人歩きをしてしまっています。

・教会は支配に加担してこなかっただろうか
 カトリック教会にはヒエラルキー(位階制度)があるためか、権力には弱い体質があります。改革を恐れ、いまだ聖職者中心的な発想から抜け出ていません。そして、そのようなところでは独裁者が生まれやすいのです。中南米に見られるように最近まで、ある国では今も独裁政治が引かれています。そのような国では、不思議なことに自然破壊も激しく進行中です。また、かつてヨーロッパ諸国の植民地下にあったアフリカ諸国も、貧困と自然破壊が進み、独裁政治とクーデターや内乱が後を絶ちません。
 「地の支配」を誤って理解してしまった「つけ」は、今も重く貧困国にのしかかっています。

 教会がヨーロッパの征服と支配の欲望にのった上での宣教をしてきたことは否めません。教会もまた、「地の支配」の意味を取り違えてしまったのです。人間であることの、神の似姿であることの、そして、キリスト者であることの優越感が、20世紀に起きた多くの惨事の原因となっていることはたしかです。それは、明治維新以降、ひたすらに欧米化を進めてきた日本にも当てはまります。