農村での生活

なぜ、その場所を?   
 私が南信州豊丘村の標高700米の佐原地区に入植したのは、1996年4月である。なぜこの地区なのかは、神様の引き合わせとしか言いようのない出会いである。
 まず農業をすると言ってもどのような農業なのか、である。自給自足の農業、つまり自活できるような農業なのか、それとも、自活は無理でもなんとか農業をするのか。私の年齢(55歳)、体力、経験(農業の経験なし)、資力(修道会からのわずかな援助だけ)等を考えると、到底、大がかりな農業は無理である。私はそれ以上に、農村共同体の中で生活したかった。その当時、農村共同体が残っているところは、山の中しか考えられなかった。
 南信州は伊那谷と言われるように、中央アルプスと南アルプスに挟まれ、その間に天竜川が流れている山深いところである。天竜川沿いの平地はやはり無理。山の中のあちこちを車で探しているうちに、ある一軒の無人の廃屋を見つけた。なぜか雷に打たれたかのように、この家に固まってしまった。どうしてもこの家に住みたい。

いわくつきの家を借りる ー 死の穢れを祓う
 近所の人にこの家のことをいろいろ聞いた。この家の持ち主はとっくに山を下り、下の街に住んでいること、などなどを聞き出したが、驚いたことに会う人会う人皆が、あの家はやめておけ、と忠告された。その理由を尋ねると、10年前、あの家におじいちゃんが一人で住んでいて、最近、顔が見えないねと家を訪ねていくと、風呂場で亡くなっていた。死後三日ほどだったという。それからその家は無人のお化け屋敷となり、荒れ果ててしまった。日中でもその家の前を通るのが恐ろしく、遠回りしてでもこの家の前を通らないようにしていた、という。
 私はそういうことには無頓着というか、恐怖を感じない。そこで、家の持ち主と折衝の結果、八畳間4部屋と板の間の築百数十年の母屋と土蔵、納屋、それに家の前の畑、後ろの広大な竹林を含めて、なんと、月3千円!で借りることとなった。ただ、10年間も廃屋となり、荒れ放題となっていたのでもちろんそのまま住める状態ではなく、住めるようにするため結構な費用がかかった。ただ、伊那のあの仲間たちに便利屋さんがいて、彼にずいぶん助けられた。

 私がこの地に入ったときはオウム真理教のサリン事件があったときで、隣の大鹿村の山中にサリンを捨てたという噂で、警察、消防団、住民で山狩りが行われたときだった。そういうときに、ヤソの坊主が恐ろしいお化け屋敷に住むというので、この地区の人たちは非常に不安になり、警戒をしていた。ただ、幸いなことに、私は伊那の教会付属の保育園の園長をしていて、山に入った時も、地域の人にはカトリックの神父ではあるが、同時に、保育園の園長でもある、と知らせてあったので、皆は一安心して迎え入れてくれた。ここでは神父というよりも、保育園の園長といった方が信用してもらえるのである。

いわくつきの田んぼを借りる
 この地に入った一年目は、保育園の閉園処理で農業に手を染めるほどゆとりがなかったが、二年目には家のすぐそばのそれこそ目抜き道りに面したところに、荒廃した3枚の田んぼがあり、それを借りることにした。この田んぼも曰くがあり、借りる人もなく荒れた放棄田になっていた。それは、この田んぼの持ち主のじいさまが、畦で耕運機の下敷きになり、命を落としたからである。
 日本古来の考えでは、不慮の死を遂げた人は成仏できなく、恨みや怒りを持ってこの世を徘徊している。だから魂を鎮める鎮魂の祈りをもって怨霊を鎮めるしかない。この家がお化け屋敷になったのも、田んぼが借り手がなく放棄されていったのも、怨霊のたたりを恐れてのことである。
 この家は少し奥まったところに位置しているが道路からは見えるところにあり、田んぼもこの地区の中心に位置するところにある。この地区の人々は、いつも死の恐怖、亡霊のたたりを恐れて暮らしていたのだろう。私がこの家の回りをきれいにし、夜は電気がつき、田んぼも美田とまではいかないにしても稲が実る黄金色の田んぼに変わっていったとき、「この地区の雰囲気がガラッと変わった」といろいろな人から言われた。
 死の恐怖から、怨霊への恐れから解放されたのである。

土地の人から受け入れられる 
 この地区に入って5年目の3月、畑で草を焼いていたときのこと。火が山の方へ広がってしまった。初めてのことで、頭の中が真っ白になり、とにかく無我夢中で消しにかかった。ところが乾燥しきった草はそう簡単に消せるものではない。
 向こうでそれを見ていた付近のおじさんが119番して、消防や消防団がかけつけてくれた。消防の人が私を見るなり、こりゃだめだ、と救急車を呼んでくれた。大やけどである。
 救急車で飯田市立病院へ運ばれ、そこで1ヶ月半も入院することとなった。幸い、顔は軽傷で済んだが、両足が重傷で、手術とその後のリハビリの為1ヶ月半もかかってしまった。火事の方は幸いに被害はほとんどなく、それを知ったときは、「神様に守られた」と涙が出てしまった。
 この事故のことは、NHKの地方版と村内テレビ放送で放映され、私がキリスト教の牧師!であることが全村に知れ渡った。そのためか、村長さんが見舞いに来てくれた。
 退院後、毎月25日の晩には地区の常会があり、そこで、「伊藤さん、これからどうする?」と問われ、「田んぼは今年は不可能なので、元気になったら畑をする」と答えたところ、皆びっくりした顔になった。そんな大けがをし、農業を諦めてこの地を出て行くのだろう、と皆は思っていたらしい。
 これを境に、地区の人たちは私をよそ者としてではなく、自分たちの仲間として受け入れてくれるようになった。
この地区は下の街から4kmも離れた山の中腹にあり、ちょっと飲みに行く、というのは難しい。そのために、何かというとちょっと軽めの宴会が結構ある。その場で、飲んで酔ってくると、「伊藤さんは俺たちの仲間だ!」と言ってくれるようになった。
 強者(つわもの)揃いの男衆の中でも、伊藤さんは酒豪で通っていた。酒が強いのは、伊藤家の家系である。夜の飲み会の時は、要注意。会場の公民館から我が家まで、近いけれど真っ暗闇の下、酔っ払って帰るのは大変。時にはイノシシに、ガオーと吠えられたりもする。

地区の重責を担う

 佐原地区は第一から第五まで5つの常会に分かれ、私は第三常会に属していた。 第三常会には三つの組があり、わたしの組は第一組、5軒である。役場からの配布物もこの組単位で来る。
 組には組長がいて順番で回ってくるが、一組5軒のうち2軒はお年寄りで組長免除。3軒で3年ごとに組長が回ってくる。役場からの配布物を配るのが主な仕事であるが、組内で死者が出ると葬儀委員長をさせられる。古いしきたりが残っている山の中で、私は二度も葬儀委員長をさせられた。皆は、カトリックの坊主だから安心と、頼りっぱなしだが、葬儀は仏式。おいおい、私はお寺の坊さんじゃないぞ、といいたくもなるが、しかし、何事もなく、スムースに葬儀は終わった。
 ここにいると、いろいろな役が回ってくる。組の仕事のほか、常会の衛生係(ゴミ収集庫の管理)2期6年、敬老会役員2期6年、常会会計2期6年、などである。常会の会長も順番で私に回ってくることになっていたが、この年、佐原地区は上佐原と下佐原の二つの常会に編成され、私は上佐原に属することとなり、順番で新上佐原常会の会計にさせられた。
 第三常会の会計6年、上佐原常会の会計3年と、計9年も会計をしたが、会計のやることは、毎月会費を徴収し、年4回の宴会の酒と飲み物、食べ物の買い出し(これが大変)。第三常会の時は20人ほどだったが、上佐原常会になると80人近い数である。それを会計一人でしなければならない。また、正月の三日には新年の神事の準備(神前のお供え物も神父さんが準備するのです)と神主さんへの謝礼を渡す、これを9年もやった。自分ながらにたいしたものだと思う。

いろんな神様にご奉仕
 古いしきたりの残る山の中の共同体で生きていく上で避けることのできないことは、神社との関わりである。お寺との関わりは檀家制度の名残で、直接関係することはないが、神社はそこに住む人は全員氏子にさせられてしまう。それを「ノー」というと、その共同体からはみだされてしまう。 これは信仰の問題と言うより、共同体のつながりの問題なのである。その地区が一致団結していくために神社があり、氏子がある。土地の人々が大切にするのは、神社への信仰というよりも、共同体のつながり、団結なのだ。
 
 これから述べることは、伝統的なカトリックの信仰を持っておられる方には、おそらく躓きになるかもしれない。しかし、神は無限のお方、内も外もない。神はご自分の中に聖も邪も、罪も悪も、すべてを包み込んでおられる。
ブラックホールのようにすべてを飲み込んでおられる。だから、これから述べることも全部、神の中で行われていることである。神の無限の大きさを思いながら読んでいただきたい。
 この地区における神社との関わりは、元旦祭(初詣)、春祭り、秋祭りである。元旦祭は、まず前日の12月31日のこの地区にある3つの神社のしめ縄作りである。5米はあるしめ縄を3本作らなければならない。男衆総出で稲わらを撚って作る。結構、力のいる作業である。
 その後は、神社の清掃・掃除、初詣に備えての準備である。教会の掃除などしたこともないのに、お宮の掃除だ。
 元旦の朝は、5時前から神社に行って、初詣に来た人に御神酒を出したり、お茶の接待。7時過ぎには家に帰り、10時からの教会の新年のミサの準備である。
 正月3日は地区の新年の神事と新年会である。まず、会計は神事の供え物を準備しなければならない。米、酒、水、塩、尾頭付きの魚、果物、菓子、の7つである。これを並べる順序も決まっている。
 正月の神事の前には御幣作りがある。一軒に4本の御幣。家の神、かまど(火)の神、水の神、それになんとか(わすれた)の神の4本で、それに神社からのお札が配られる。私と創価学会の人は断っている。ところが私はその御幣作りが上手で、おっちゃんたちに指導までしている。
 神主さんの神事の後、新年会が始まるのであるが、神主さんは私がカトリックの神父であることははじめからわかっている。お互い、宗教者同士乾杯である。
 春祭りは大きな行事である。準備も大変であるが、その後片付けも大変だ。土日が祭りなので、月曜日が後片付けとなる。月曜日は勤め人は来れないので、勤め人でない人が後片付けになる。あるとき、全部終わって、缶ビールでご苦労さんとなるのだが、その席である人から、「伊藤さんもいろんな神様に仕えて、大変だねー」としみじみ言われて、あー、そうかあー,と今更のように気づいた次第である。実際、大変である。

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