佐原の風景
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>  私が20年間、住んで百姓をしていたところは、南信州(長野県南部)豊丘村の標高700mの山の中、佐原地区といい、160人70軒、高齢者が70%という限界集落である。
 中央アルプスと伊那山塊の間に天竜川が下る、いわゆる伊那谷で、伊那山塊の東には南アルプスがそびえ立っている。
 写真は、中央アルプス、仙涯嶺と南駒ヶ岳、右の方は空木岳。

 伊那谷は旅行に飽きた人、旅行に疲れた人が、最後に行くところと旅行業界では言われているらしい。伊那谷に行く、というと、通ですね、と言われるとか。
 伊那谷にはこれといった観光スポットはない。しかし、懐かしくなるようなふるさと、という感じのところである。
写真の左端の赤い屋根が我が家。
 豊丘村佐原は、このように中央アルプスを望む雄大な景色に恵まれ、、そのためか、人々も穏やかで、住みよいところある。
 しかし、下の天竜川沿いは標高400m、この地は700mと300mの標高差があり、冬はこの地は雪が降っているのに、下は降っていない、ということがよくある。そのため、下に勤めを持っている人たちは、下に降りてしまう人が多い。
 冬の中央アルプスは言葉を失うほどに美しい。この美しさの前には、人間の言葉など何の意味もない。

 ある冬の日の朝。見事な朝焼けがあった。
 雪に埋もれた我が家も、世界一の豪邸に見える。

 この家は築後130年ほどのもの。私が入る前は、10年ほど荒れ果てたお化け屋敷の廃屋だった。左後ろの土蔵の梁に、建築日が書かれていた。明治である。

 穏やかないい景色だ。

 かつて下の街からこの佐原を通って、峠を越え、山向こうに集落があった。しかし、昭和36年(1961)のいわゆる36(さぶろく)災害(大雨による大氾濫)による被害で、その集落は甚大な被害を受け、集団移転を余儀なくされ無人となってしまった。
 豊丘の街から峠を越え、佐原を通り、その集落にいたる道には、道々38ヶ所に観音像が祀られている。観音が38体の姿になって人々を救うと言われている。
 今は人も通らない道になってしまったが、今も観音像は風雪に耐えて建っている。写真は佐原の街にある第一観音である。

 佐原集落の入口にある、何番目かは忘れたが、観音像と馬頭観音が祀られている。今は無人となったその集落は古い歴史があり、南朝の末裔が土師として木工製品を作っていたという。今もその墓があり、その墓石にはは菊の紋章が刻まれている。ただ、花弁の数は一枚少ないという。
 木工製品や炭、農産物を運ぶのに馬が使われた。険しい峠道で、馬が怪我をしたり死んだりしたのだろう。馬の霊の鎮魂のために、馬頭観音が祀られている。

 佐原集落は、かつては豊かな集落だったのだろう。芝居小屋が残っている。江戸末期には興行権まで持っていたというから、この集落の人たちが、農閑期にはいろんなところへ出向いて歌舞伎を演じていたのだろう。歌舞伎は総合芸術である、楽器の奏者、謡の演者、そして、歌舞伎の演者。ここの村人がそれをこなしていたのかと思うと嬉しくなる。戦争で招聘されたり、満州へ移住したりでこの歌舞伎団も消滅してしまったが、建物は残っていた。戦後、保育園として一時使われたこともあったという。

 その内部。舞台にはせり上がりの装置まであったようだ。
 今も、春祭りには山車が出て、近所のおじちゃんや子供たちが笛や尺八、大太鼓、小太鼓、それに三味線などが賑やかに神楽を演じている。佐原には神楽の8曲が伝えられているという。それにしても、地区の冴えないおっちゃんが、笛や太鼓の名手とは。驚きだ。

 雪の観音堂。村宝である。竜の彫り物が見事。

 下の天竜沿い、飯田市市田は、飴色の粉の吹いた干し柿、市田柿で有名である。そのため、この地でも渋柿の栽培が盛んである。
 10月に入ると、農家は柿の収穫と柿剥きで忙しくなる。気温がある程度低くならないと柿が腐ってしまうし、かといって収穫時が遅くなると、柿が熟して皮むきができなくなる。


 秋はカラフルだ。

 我が家の玄関先にある柿の木。この柿を目当てに人も鳥もやってくる。いわゆる売り物にならない小さな実しかならないが、それでも無農薬の(ほったらかしの)柿なので、安心である。渋柿なので、熟して柔らかくならないと食べられないが、渋柿の方が甘みは強い。

 雪の佐原。

 雪に埋もれた我が家。

 中央アルプスに日が落ちる。
 農作業の後、自分に、今日もご苦労さん、と言ってやる。


おまけ ー イノシシを見たことがない人のために
 罠にかかったイノシシ。

 
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