復活祭、それはキリスト者にとって大きな、非常に大きなお祝い日である。
復活祭は、十字架上で息を引き取られたキリストが復活された、ということだけではなく、私たちの一生も死で終わるのではなく、死後に復活があり、永遠に生き続けるのだということが保証された、ということがキリストの復活の意味である。死の恐怖からの解放である。
しかし、キリストの復活は私たちの死後の世界、来世のことだけなのだろうか。今のこの人生とは関係がないのだろうか。
以下に述べることは、私の小さな復活体験である。
3月末から二週間ほど浸水した種籾を、4月9日の昼過ぎから、三十度のぬるま湯をはった浴槽に入れ、芽を出させる。翌朝、芽の出具合を確かめ、それを洗濯機の脱水で水を切り、苗床にまいて育苗が始まる。
この朝、芽の出具合を見ようと浴槽から種籾の入った網袋を引き上げて、よく見ると種籾は皆小さな芽を出している。可愛らしいというか、あどけないというか、私はこの籾の姿にひどく感動してしまった。二週間、毎日水を張った桶の中で水を吸わせ、攪拌したり水を取り替えたりと世話をしてきた。それだけに種籾の芽に感動したのかもしれない。
種籾のいのちへの感動は、5ミリほどの小さな粒の種籾に100粒、200粒も実をつけるその驚くべき生命力が秘められていることへの感動である。どこにそのようなエネルギー、パワーが秘められているのだろう。
いのちあるものはすべて死ぬ運命にある。死ぬからこそ、それで種が絶えないように子孫を残そうとする。この意識は動物や昆虫、植物にとどまらず、細菌やバクテリアに至るまで持っている。その残そうとする意識(意識という語は誤解を受けそうなので、本性と言っていいかもしれない)は、いつどこでどのように生じたのだろうか。
現代生物学は分子の世界、遺伝子の世界にまで到達し、まさにいのちの神秘まで解明しようとしている。しかし、それは現実に起きているものを解明しようとしているに過ぎない。過去にさかのぼって原初に起こった出来事、すなわち、生命の発生、生存本能や種保存本能の発生など、科学では解明できない分野も多い。
ともあれ、種籾の芽は、あることに気づきを与えてくれた。それは、聖霊の働きについてである。
神は父と子と聖霊の三位一体の神であり、いつも三位一体の神として動かれる。この宇宙創造もしかりである。人間的な言い方を借りるなら、父は宇宙万物を創造することを思い、何をどのように創造するか計画を立て、子はそれに従って宇宙万物を創造し、父と子は聖霊を通して宇宙万物に生命を吹き込まれた。
フッと息を吹きかける、これが聖霊の本来の意味である。
「神である主は、土の塵で人を形づくり、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きる者となった。」(創世記 2:7)
「あなたはご自分の息を送って彼らを創造し、地の表を新たにされる。」(詩編 104:30)
神はさまざまなものに息を吹きかけて(聖霊によって)生命あるものにし、聖霊によってマリアに御子を宿らせ、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになった御子のうえに聖霊を注いで御子とともに働き、十字架上で息を引き取られた御子に息(聖霊)を吹き込んで復活させられた。
万物に命を与え、御子に命を吹き込んで復活させた聖霊が、いまここで小さな稲の種籾に命を吹き込んでおられる。小さな種籾が、生きているというより聖霊に生かされているその懸命な姿に、ひどく感動させられたのである。
御子の復活は2千年前のことではない。また、私たちが死んだ後のことでもない。いまここで、目の前で御子を復活させた神の霊が働いている、その実感が種籾の芽出しだったのである。