山に生かされる

信仰の山、金剛山の紅葉

(2017.10.30)



金剛山で (クリックすると拡大します)
 大阪府の最高峰、金剛山(1,053m)は、飛鳥時代の役小角(えんのおずの)(634〜701伝)がここで修行し、修験道を開いた山として有名である。役小角は金剛山から吉野山、大峰山、そして熊野本宮大社に至る大峰山脈で修業し、いまも修験者の修行の場として吉野・金峯山寺、大峰山から熊野本宮大社に至る熊野奥駆道は世界遺産に登録されている。しかし、金剛山は残念ながら世界遺産には入っていない。(この写真だけインターネットから借用ー以下の写真は私の撮影)

 金剛山の頂上には、葛木神社と金剛山転法輪寺が神仏習合の形で祀られ、修験者の聖地であったが、明治の神仏分離令により転法輪寺は廃寺とされた。戦後、真言宗醍醐派大本山、葛城修験道根本道場として再建され、いまも修験者にとって重要な寺である。

 古来から山は神の降臨するところ、神が臨在するところとして信仰の対象になったり、特別な思いで見られてきた。修験道者にとって山は神に触れるところであり、修行によって特別な能力(呪術)を得るところ、また、真言密教では山での修行によって仏となっていく現世成仏の場として、神仏習合が色濃く見られるところである。 

 ユダヤ・キリスト教においても山は特別な位置を占める。例えば旧約では、神はシナイ山でモーセに十戒を授け、預言者エリアがカルメル山で神に出会ったと記されている。
 また、新約の福音書においても、イエスは度々祈るため(父である神と語るため)に山に登り、また、山上の垂訓、ご変容など重要な場面で山が登場する。また、山ほど高くはないが、十字架の処刑はゴルゴタの丘である。
 山に聖なるものを感じるのは、洋の東西を問わないらしい

 葛城・金剛の峯々は登山者に人気があり、かなり公園化されているとはいえ、やはり信仰の山として特別なものを感じる山である。
 登ったのが十月の末ということもあって、紅葉の盛りにはちょっと早いかなという感じであったが、かえってそれが神秘的なすがすがしい紅葉を見せてくれた。
 山の木々によって癒やされる。何故だろう。これについて科学的にいろいろな角度から研究がなされていて、とくに癒やしの心理的面や生理的面が、多くの研究によって実証されている。しかし、なぜ木々や森に癒やしの力があるのか、十分解明し尽くされているとはいいがたいが、宗教の側から言うと、それはいのちといのちの触れ合いだからと考える。

 教皇フランシスコが出された回勅ラウダート・シで、教皇はブラジル司教団の言葉を引用して、「自然は神の現存の場であり、いのちの霊はあらゆる生き物の中におられる」と、以前なら異端と非難されたような表現で語っている。
 木々には神のいのちの霊ー聖霊が宿っている。そのいのちの霊によって、わたしたちのいのちが癒やされるのである。

イエスは「労苦し、重荷を負っているものはみな、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしの心は柔和で、謙遜であるから、わたしの軛(くびき)を受け入れ、わたしに学びなさい。そうすれば、あなた方は魂の安らぎを見出す。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11.28−30)と述べておられる。

 聖書のこのこの言葉は、森や林、山に登ったときに強く感じる。この大自然の中を散策し、大自然に包まれてどれほど癒やされてきたたことか。苦しみや哀しみを抱えたとき、ストレスや仕事でぐったり疲れたとき、人生に絶望したとき、いいようのない不幸に襲われたとき、わたしたちは大自然に癒やされてきた。
 
 イエスがご自分について言われたことがなぜか、あまりにもそのまま、この大自然に当てはまるのだ。聖書は神のみ言葉である御独り子がこの世界を造られたという。だからこそ、この世界は造り主の御子の性格、性質をそっくり受け継いでいるのだろう。上のイエスの言葉はそのままこの大自然に当てはまり、大自然に抱かれることは、イエスに抱かれることでなのである。 

 山には神の霊、神のいのちが溢れている。山に登ることによって、その神のいのちにどっぷりとつかる。
 山を登りながら思う。山を登っているのではない。登らせていただいているのだ、山に生かされているのだ、と。