私が住んでいるここ、東京六本木の聖ヨゼフ修道院には小さいながらも庭園がある。
これは3階の私の部屋から撮した庭園であるが、ヨゼフ像の後ろにミニトマト、その奥にナス、ピーマン、オクラ、唐辛子が植えられている。今収穫の真っ最中であるが、ナスは剪定して休ませ、秋ナスに備えている。
ここに住んで日本語を勉強中の中国から来た宣教師が、日本でも昔、家庭の台所から出たカボチャの種を庭に蒔いたように、厨房から出たカボチャの種をあちこちに20粒ほど蒔いていた。微笑ましい光景である。種から芽が出て、大きく育ち、花を咲かせ、実をつける、それが楽しみで種を植える。実をならせることが嬉しいのである。
庭園に蒔いたカボチャの種は順調に芽を出し、蔓を伸ばし、蕾をつけ、花を咲かせ大きく育っていった。しかし、すべての株が、花を咲かせた後、実をつけることなく枯れてしまった。なぜ、実をつけないのか。
20年間、百姓をやってきた者にとって、こうなると思ってはいたが、気の毒で彼には話していなかった。(日本語は勉強中なので)
今、スーパーで売られている野菜や果物は、ほとんど100%と言っていいほど、それからとれた種子を蒔いても、花を咲かせたあと実をつけることはない。子孫を残すことができない、その世代(第一世代)だけの野菜や果物なのである。専門用語で「一代雑種」(F1:first
filial generation)、あるいは「一代交配種」とも言われる品種である。
農業の世界では戦前から、さまざまな品種改良がなされてきた。その中で、40年ほど前から、対立的な性質のものを交配させ望みのものを作り出す、遺伝を利用した品種改良が行われるようになってきた。対立的な性質のものとは、たとえば、大量に実をつけるが病気に弱いものと、病気には強いが少量しか実をつけないものを交配させ、大量に実をつけ病気
に強い品種ができる。ただこれは一代限りで、子孫を残すことができないF1品種である。つまり、上のカボチャのような品種になってしまうのである。
F1品種は、個体間のばらつきが少なく、成長が早く、一斉に発芽し、一斉に収穫できる、という特徴があり、生産と流通に非常に都合のよい品種である。そのために、圧倒的にF1品種が栽培され、市場に出回ることになる。また、農協や種苗店で売られている種子や苗はほとんどF1のものであり、化学肥料、農薬とともに現代農業の3点セットといわれている。F1品種は多量の化学肥料と農薬を必要とするからである。
F1品種は一代限りなので、種子の国外への流出を防ぐことができる。つまり、知的財産を守ることができる。それとともに、種子の寡占化が進んでしまう。
ただ、F1品種は遺伝子組み替え操作品種とは異なる。F1種子は遺伝子操作(DNA操作)はしていない。交配操作だけである。
F1は良いことずくめのように見えるが、大きな問題を秘めている。それは一代限りの、自然界には存在しない品種である、ということである。植物に限らず動物も生命あるものは皆、子孫を残すということが本質的な存在様式である。子孫を残すことが存在の原理でもあり、子孫を残すためにさまざまな多様性が生まれてきた。この多様性は動植物の素晴らしい
面であり、大自然の豊かさを示すものである。しかし、F1種子の浸透とともに種の多様性が失われ、品種の画一化、化学肥料の多用による土壌の劣化、農薬による環境汚染が深刻となってきている。消費者の求める快適な食卓のために、この大自然が大きくゆがめられてきている。私たちは気がつかないままに、私たちを支える大自然を大きく傷つけてしまっているのである。
私たちがもう一度、永続的な自然を取り戻すために、F1品種、農薬、科学肥料という農法から自然に即した農法を取り戻す必要がある。しかし、それは、気が遠くなるほどの、不可能と思えるほどの大きく深い変革である。
一代限りではなく何世代にもわたって、環境と深く関わり合い、その土地、その場所に適応した植物が育っていく。その環境に応じたさまざまな形、さまざまな味、さまざまな形態が育ち、それが次の世代へと受け継がれていく。
これが自然界の当たり前の姿である。
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