水辺の鳥たち

(2019.12.13)


  今、バードウオッチングにこっている。心身の健康のために、と都内の公園巡りをしているうちに、鳥にのめり込んでしまったのである。公園といっても、人の手が入りすぎている庭園(江戸時代に大名が造ったものが多い)ではなく、人の手があまり入らない自然林を目指している(人工林でも手を加えずに50年もすれば自然林になる)公園である。そういうところは鳥も多くいる。
 信州の山奥で農業をやっていたときは、鳥獣害という言葉のように、稲はスズメに、豆類は山鳩に苦しめらていた。(実は、スズメは害虫を食べてくれる益鳥でもある) しかし、なぜか、いまではスズメが大好きで、そのせいかバードウオッチングに精を出しているのである。

 野鳥の会発祥の地とも言われる杉並区にある善福寺公園で、全く予期もしない、偶然に、空飛ぶ宝石と言われているカワセミに出会った。その感動は大きく、そのためか手が震え、十数枚撮った写真のうち、少々ピントは合っていないが、かろうじて使える写真はこの一枚だけという、なんともなさけない結末だった。
 しかし、写真に撮るのが目的ではない。カワセミに出会ったのが嬉しいのである。空飛ぶ宝石と言われる光沢のある背の翡翠色の羽も美しいが、あの顔つきがなんともいい。小さいながらりんとした気丈夫な顔つきがいい。

 葛西臨海公園の海岸で見かけたハクセキレイ。特徴は、顔が白く、目のところに黒い線が走り、背と尾羽が黒い。街の中でも明るいところが好きなのか、夕方になって暗くなると、明るい街路樹などに群がるように集まってくる。
 歩きながら虫などを捕らえて食する。

 水辺の鳥ではないが、大田区にある野鳥公園で見かけたヒガラの群れである。頭部が黒く、ほおが白い。カメラの能力がここまでだったので、これ以上大きくとれないので詳細にはわからないが、ヒガラだと思う。

 岸辺にたたずみ、獲物を狙うゴイサギである。善福寺公園で出会った。
 それぞれ生きるためには食べなければならない。食べるもの食べられるものの間には生態学でいう食物連鎖があり、いのちの交わりがある。しかし、人間は食べることによって、多くの種を絶滅に追いやっている。今まで、豊富に獲れ、好きなだけ食べることが出来た海洋生物(魚)が、絶滅に追いやられていることは悲惨な現実である。

   これも善福寺公園で、木の上から獲物を狙っているゴイサギである。その姿は、静の中の動、動の中の静、という禅の世界を思わせる。その姿は、まるで禅僧が座禅しているかのように、みじんも動かず静止している。

 姿だけで判断するのは申し訳ないが、コサギの姿は禅僧ではない。まるでバレーリーナの姿である。
 同じく獲物を狙っているのだろうが、優雅さを感じさせる。



 東京湾野鳥公園で出会ったアオサギ。一本足で立っているところを見ると、獲物を狙っているというよりは、休んでいるのだろう。

 葛西臨海公園の浜辺で出会ったダイシャクシギ。渡り鳥である。
 下方に湾曲した長いくちばしで、野鳥図鑑によると砂の中にいるゴカイやカニを捕って食べる。

 ここでは砂の中にいた小魚を、見事に捕獲した。

 渡り鳥(旅鳥ともいう)はシギやチドリのように、シベリアとオーストラリアやニュージランドの6千kmを往復するものや、カモや白鳥のようにシベリアから日本で越冬するために飛来するもの、東南アジアから涼しさを求めて飛来するものなど、実に多くの鳥が日本に飛来してくる。日本にいる鳥の60%は渡り鳥だともいわれている。
 雀やカラスのようにほとんど移動しない鳥は留鳥、日本国内を移動する鳥は漂鳥、と分類している。
 鳥を見る、ってなんなのだろう。かわいいから、それもある。さえずりに癒やされるから、それもある。人それぞれである。私の場合、鳥がいのちを生きているから、かもしれない。それについては、次に。