修道院の中で生活していると、祈りの時間もあり、毎朝ミサもある。神と出会い、神と語らう時間もある。しかし、時々、無性にいのちに触れ、それを通して神と出会いたくなることがある。生きた生命に触れたくなるときには、動植物に触れたり、森林浴をする。彼らのいのちに触れて、いのちの力をもらうのである。そこには神の霊、聖霊がこの瞬間も働いておられるからである。
そのようなわけで、いのちをもらいに不忍池に蓮を見に行ってきた。今が見頃である。
ほとんど池の水が見えないぐらい、池一面に蓮の葉が生い茂っている。
江戸時代からこの池で蓮が植えられていたようであるが、戦時中には水田となり、戦後改めて蓮が植えられていった、とある。
都心の高層ビルが乱立しているようなところで、神に出会うことができるか、これが今の私の密かな課題である。二十年間、山奥で農業をしてきて、いまは高層ビルに囲まれた六本木に住んでいる。でもここでも神に出会えるはずだ、神はどこにでもおられるのだから。
不忍池の蓮は、その一つの答えだろうと思う。
蓮は7月から8月が見頃だというが、一面に咲き乱れているというわけではない。この広い不忍池でも、あちらにぽつり、こちらにぽつりという程度である。しかし、その方が風情がある。蓮の一輪一輪が、ひっそりとたたずんでいる姿にほっとする美しさがある。
1962年、レイチェル・カーソンは「沈黙の春」を著して、進みゆく自然破壊と自然汚染に警告を発し、それ以降の環境保護運動の先駆者となった。その彼女が、1964年に没するまで書き綴った、未完に終わりはしたが、彼女の遺言のような素晴らしい小品がある。
「センス オブ ワンダー The Sence of Wonder」(上遠恵子訳 新潮社) 上遠さんはこれを『美しいもの、未知なもの、神秘的なものに目を見はる感性』と美しい訳をしている。私たちはこの感性を、年と共に忘れ去っていっている。
本当は、一番大切なものなのかもしれない。
ひっそりと咲く一輪の蓮の花は、失いつつある大切なものを思い出させてくれる。美しいものを美しいと感じる感性。いのちの美しさ、いのちの神秘に目を見はる感性。そして、そこに神のいのちを感じ取る感性。
蓮の花はそれを教えてくれた。
蓮、ハス、インド原産のハス科の多年性水生植物。
なんとも味気ないが、ひとまず自己紹介。
このつぼみの中には、夢と希望がいっぱいの若いいのちが詰まっている。
しばらく、蓮の美しさといのちを受け止めてみたい。
蓮の花は早朝に開き、昼には閉じてしまう。これを3回ほど繰り返し(つまり3日ほど咲いて)4回目に花びらが落ちてしまう。短いいのちである。
花びらが落ちてしまった後には、蓮の実が残る。下にたれ下がっているのは雄しべだろうか。子孫を残す、という役目が終わって、ほっとしている感じだ。
蓮の実は、古くから生薬として、婦人病や滋養強壮、下痢止めなどの効果があるという。
水の底に作る塊茎という大きな根っこは蓮根と呼ばれている。ご承知の通り、蓮根には空洞がいくつもある。それはその空洞に空気をためることによって、根が腐らないようにしている。稲の根にも空気をためる細かな空洞がある。
蓮の葉には水をはじく作用がある。それをロータス(ハス)効果という。ハスの葉の表面に、ワックスのような物質でできた無数の突起があり、そのために水は広がらずに滑り落ちていく。葉の表面の汚れを洗い流しながら。
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