フランシスコと三位一体の神
(2019.7.2) 


 私の信州の山奥での二十年の農業生活、それはただ自然派とか環境派といった生き方だけのものだけではなく、もっと深いところの宗教的な意味があるはずである。そこのところに神学的な確証を与えてくれたのが、ユルゲン・モルトマンの創造論だった。彼の三位一体的創造論、生態学的創造論、そして、聖霊論的創造論は、私が長年探し求めてきたものを満たしてくれた、まさに砂漠に水のような大きな出会いだった。

 ミサで唱えられる「使徒信条」の冒頭は、「天地の創造主、全能の父である神を信じます」で始まる。現代に至るまで、天地を創造した神は全能永遠の父、と固定化されて理解されてきた。創造の神は父、救いの神は子、と役割分担してしまったのである。
 このような哲学的、神学的神から、キリストによって啓示された神、つまり、福音で示されている三位の神に戻ろう、とモルトマンは言う。つまり、唯一絶対の神は三位一体である、という教会の伝統的な神観から、三位一体の神は唯一の神である、という福音的な神へ。神の三位一体性と唯一絶対性と、どちらを強調するか、ということである。

 ところで、フランシスコは神をどのように捉えていたのだろうか。中世スコラ神学の華やかな時代のその前、アウグスティヌス神学の影響の強い時代に、神学の専門的な教育を受けていないフランシスコが、どのように神を理解していたのか、興味を引かれるところである。
 ところが、今からおよそ800年前、中世スコラ神学が華と開く前、「天地の創造主は唯一絶対の神」、というアウグスティーヌスの影響が強い神観の中で、フランシスコは教皇から認可されなかった第一会則の中で、驚くべく三位一体的創造論を述べているのである。

 「全能、至聖、至上の神、
  聖にして義なる父
  天地の王である主よ、 
  聖なるみ旨により、
  あなたのおん独り子によって、
  聖霊をもって、
  霊的・物質的なものをすべて創造し、
  あなたの似姿、およびかたどりとして創造された私たちを、
  エデンの園に置いてくださいました。」(認可されていない会則 第23章)

 父である神は、子によって、聖霊をもって、この宇宙万物を造られた、というのである。モルトマンは、父が子によって、霊において、天地を創造された(創造における神 146頁)と表現している。
 フランシスコは聖職者ではなく、一修道者、叙階から言うと一信徒である。とくべつ司祭になるための神学や聖書を学んだわけではなく、神学知識は一般信徒とそう違わないと思われる。なのになぜ、あの時代にこれほどの三位一体的創造を語ることができたのか。

 その答えをいろいろ探していたが、偶然に(聖霊の導き、としか思えない)六本木にある本部修道院の地下にある薄暗くかび臭い資料室で(初めて入った)、1981年に出版されたJ.G.ブージュロル著、岳野慶作訳「聖ボナヴェントゥラ」(中央出版社)を目にし、手にとってパラパラとめくっていると、なんと、その中に答えがあった。
 「聖フランシスコは神学者ではない。しかし、彼は福音書を読むことはできたし、しかも、その全存在をあげてこれを読んだのである。聖人は、福音書の中に、哲学者たちの抽象的な神ではなく、主イエス・キリストの「父」である生ける神を発見した。三位一体の神の秘義は、聖人にとって、その生命の中心である。」(同書87頁) 
 感動的な一節である。彼は教義として教えられたというより、福音を生きるという体験の中で神を見いだしていったのである。
 フランシスコが兄弟レオに与えた祈り、「神の賛美」に、次のような箇所がある。

 「あなたは三位にして一体の主なる神、
  善のすべて
  あなたは善、まったき善
  最高の善
  主なる生けるまことの神にまします」
        (アシジの聖フランシスコの小品集 フランシスコ会叢書4 1974)

 また、フランシスコは主の祈りの解説の「天におられる」のところで、次のように書き記している。
 神なる父は、天にいる天使や聖人たちの中に住み、彼らを至福で満たされる。なぜなら

  「主よ、あなたは最高の善、
   永遠の善であり、
   あらゆる善はあなたから出て、
   あなたなしにいかなる善も
   ありえないからです。」

 フランシスコは、神を善そのもの、善の善、最高の善、と人間の言葉で神を言い表し得るものとしてこれしかないとばかりに「善」という言葉を用いた。そして、ボナヴェントゥーラは、フランシスコが神の善性から三位一体の神を悟っていった、と言う。

 「善は自らをあまねく分かち与えると言われる」のであり、それ故、最高に善なるものは、最高度に自己を分かち与えるからです。
 永遠の始源より共に始源として永遠に産み出すものが産み出されます。かくして愛される者と共に愛される者が、つまり、産み出されるものと息吹かれる者が、産み出されることになります。これこそ父と子と聖霊なのです。」(長倉久子訳註、ボナヴェントゥーラ「魂の神への道程」71−72頁)

 善は自分の内に留まらず、他に向かって広がっていく。神は善そのもの、幸せに満ち、喜びに溢れている。それを誰かと分かち合わずにはいられない。共に幸せになり、共に喜びたい。善の特質は、分かち合い、交わりと一致である。
 神はそのために、永遠の彼方で「子」を産み、それによって「父」となり、「霊」によって永遠・無限の分かち合い、交わりと一致が満ちている。神の最高の善の姿である。
 聖フランシスコはこれらのことを福音書を通して知り、悟っていったのである。

 ボナヴェントゥーラは、「魂の神への道程」6章で、神がその善性から三位一体に至る道程(神には時間はないが)として、流出と産出という言葉をもって説明しているが、それはまたの機会とする。
 次はフランシスコの「善」と、西田幾多郎の「善の研究」について考えてみたいと思っている。