いまなぜフランシスコ?


 今、世界においてフランシスコの精神、あるいはフランシスコの霊性が再評価され、再認識されている。今から800年以上も昔の人、日本でいえば鎌倉時代の日本仏教を確立していった親鸞や道元の時代の人、イタリアのアシジの人、フランシスコが、今、何故?

 2013年3月13日、カトリック教会はグレゴリオ16世教皇の後任として、史上初となるイエズス会員を教皇に選んだ。アルゼンチン・ブエノスアイレスの大司教ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿である。教皇に選ばれた彼はイエスズ会員であるのに、教皇の名として「フランシスコ」を選んだ。なぜ、彼は教皇の名にフランシスコを選んだのだろうか。長らく日本で教鞭を執っていた現・イエズス会総長のアドルフォ・ニコラス師の言葉がそれをよく表している。

 「我々がいま知ることになった教皇の『フランシスコ』という名前は、貧しい人々への近さという福音的精神、素朴な人々との一体感、そして教会刷新への献身を想起させるものである」(Wikipediaより)

 新教皇ベルゴリオ枢機卿はこれからの教皇としての生き方ばかりではなく、教会の進むべき方向性としてアシジの聖フランシスコを選んだのである。いま世界は実にさまざまな問題を数多く抱えている。
 いまだに世界中で数十万発もの原水爆を所有し、その保有国も増え、軍事費も年々増大し、ISやタリバンのような好戦的なグループが世界中に散らばり、その破壊的ゲリラ行動がしばしば世界を震撼させる。このような世界で、平和は可能なのだろうか?
 戦争より怖ろしいのかもしれない。静かに深く静かに、全世界的にこの地球を、環境を、この大自然を、そして、人間をむしばみ、汚染し、破壊し、滅亡へと導いている環境汚染と環境破壊。
 どこを見てもスマホ片手の人々、観光客の爆買い。豊かさを求め、ものを探し、ものの中で自分の人生を狂わせていく。一秒の数万分の一秒単位で莫大な金額が売買されていき、それに国の経済も政治も振り回されていく。このような世界に、金とは、豊かさとは、ものとは?
 このような世界の中で、小さくされた人々、弱いものにされていった人々、貧しくされた人々、世界にはびこる貧富の恐るべき差、さまざまな差別と格差、国や民族、言語、宗教、からくる差別や争い。このような世界で、みな兄弟として生きれるのか?

 このような世界の現実に、教皇は聖フランシスコを掲げてその解決に向かおうとしておられる。しかし、アシジの聖フランシスコを創立者・師と仰ぎ、彼の模範を生きようとしているフランシスコ会は、このような世界の諸問題に対応する能力をほとんど失っている。だから、教皇は一修道会ではなくカトリック(普遍的)教会として全教会的にフランシスコの霊性を生きようとされた。教皇はこの全世界的な危機に対して、「フランシスコに帰れ」と叫んでいる。フランシスコの中にこそ、世界的危機を解決していく鍵があることを教皇は見抜いておられるのである。
 教皇はご自分の生活の中で小さく貧しいものと共に生き、差別や格差の非を、また、「ラウダート・シ」という回勅を通して、地球を守ることを強烈に訴えている。いま、教会はフランシスコを生きようとしている。

 良寛の歌に次のような歌がある。
  いにしへの人のふみけむ古みちは荒れにけるかも行く人なしに