吉本隆明の反「反原発」論

 (2012.2.9)      

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エコロジーの部屋


 

 1970年代、80年代に青春時代を過ごした者、つまり、いまの50代から70代にかけての中高年にとって、吉本隆明は強烈な影響を与えた思想家として忘れられない存在である。吉本 隆明(よしもと たかあき、 1924年(大正13年)生まれ)は、思想家、詩人、評論家として日本の言論界を長年リードし、「知の巨人」とか「戦後最大の思想家」と呼ばれ、 全共闘時代には熱狂的な若者たちの教祖的存在であった。
 しかし、昨年の3.11以降の彼の原発に関する発言に幻滅を感じ、彼に違和感を感じる人が多くなっている。私もその一人である。


『8・15からの眼差し  震災5ヶ月』 (2011.8.5 日経新聞 インタビユー)

−事故によって原発廃絶論が出ているが。

 「原発をやめる、という選択は考えられない。原子力の問題は、原理的には人間の皮膚や硬いものを透過する放射線を産業利用するまでに科学が発達を遂げてしまった、という点にある。燃料としては桁違いに安いが、そのかわり、使い方を間違えると大変な危険を伴う。しかし、発達してしまった科学を後戻りさせるという選択はあり得ない。それは、人類をやめろ、というのと同じです。
 だから危険な場所まで科学を発達させたことを人類の知恵が生み出した原罪と考えて、科学者と現場スタッフの知恵を集め、お金をかけて完璧な防禦装置をつくる以外に方法はない。今回のように危険性を知らせない、とか安全面で不注意があるというのは論外です」



 彼の言説のいくつかの問題点を挙げよう。
@ 原子力の問題とX線のような放射線を同じレベルで取り上げているが、あまりにも飛躍しすぎてはいないか。
A 原子力発電で使用するウランは、桁違いに安い、というが、ウラン濃縮から核廃棄処理及び永久保存、また、起きてはならない事故が起きてしまった後の損害や損害賠償などを考えると、原発は桁違いに高い。
B 科学を後退させることは人類をやめることと同じ、という論拠が乏しい。彼は原子力利用を科学の頂点と考え、あたかも現代文明を代表するものが原子力であるかのように考えている。また、彼の説では、昔からの生き方を守っているアマゾンの原住民やボルネオの原住民、アフリカのジャングルで生きている人々は人間以前の存在になってしまう。
C 原罪、つまり、罪を犯した人類の知恵が、完璧なものを作り出せるというのは自己矛盾である。完璧でない、不完全だからこそ罪を犯すのである。その同じ人間が、どうして完璧なものを作り出せるというのか。
D 「原発をやめるという選択は考えられない」という彼の確信は、それはそれとして彼がそう考えるのは自由である。しかし、それの論拠となるものがあまりにも貧弱であり、これがかつて「知の巨人」と言われた人と同一人物かと耳を疑いたくなる。
 なぜ選択は考えられないのか。原発の存続の選択権は吉本にあるのではなく、私たち国民にある。原発の選択を彼に委ねた覚えはない。本来ならこれほど核の被害に遭い、核の恐怖を体験している日本国民に、国は原発の存続の是非を問うべきである。

 彼の話の中に「科学の発達」という言葉が3度出てきているが、この言葉は彼の原発論を解く鍵である。この「科学の発達」という言葉の中に、ヘーゲルーマルクスの影響が色濃く見られるからである。
 彼は、中沢新一、梅原猛との対談集「日本人は思想したか」(新潮社、1995年)の中で、マルクスの「手を加えたところから外界は全部、価値化する」という考えを自分もとっていると語っている。これはデカルトの有名な命題「我思う。故に、我存在す」からヨーロッパ思想は人間中心になり、ドイツ観念論を生み出し、ヘーゲルの絶対精神に至っていく、その延長線上である。
 私はこの鉛筆を思う。だからこの鉛筆は存在し、意味を持ってくる。私が思うか思わないかによって、私以外のもの(外界)の存在とその価値が決まってくる。「我、手を加える。故にそれは存在し、価値を持つ。」である。吉本隆明もその延長線上にある。すなわち、科学によってすべてのものは存在価値を持つようになるのである。

 吉本隆明にとって、科学は価値を与えるもの、意味を付加するもの、自然を征服し、価値を与えていくものである。そういう意味で彼は、「僕は終始一貫、反自然ということを強調してきた」と語るのである。(「日本人は思想したか」) だから、「科学は必ず現在を超えると思っている。科学はいつか原発を超えるものを生み出すかもしれない。だから,科学技術を楽天的に考え、エコロジカルな思想、反原発の思想に反対である」と言う。(同書)
 彼はヘーゲルの弁証法的歴史観に傾倒している。正・反・合という弁証法的歴史の流れは、たとえば原発という正(定立)に対して原発事故という反(反定立)が生じても、科学技術の力によってさらに安全な原発が生まれる(合ー止揚)、と彼は言う。人間の知恵はそれを可能にする、というわけだ。
 科学は常に発達し、自然を克服し、人間が作り出したものさらに改良していく。彼はこの楽観的な科学技術論を展開し、人間の歴史において、一つの過程として原発があり、いつかは原発を凌駕するものが現れるだろう、だからそれまでの間は原発を認めるしかない、と原発容認論を語っている。もっとも、彼は自分は原発促進派ではない、と言っているが。
 人類の長い歴史から見ると、そうなのかもしれないし、そうでないかもしれない。しかし、彼の持論には科学に対する倫理観、とくに、原子力利用の原水爆や原発に対する倫理観がみごとに欠如している。核が人類に与えてきた苦しみや悲しみにほとんど触れることがない。まるで科学至上主義のような言い方で、科学の発達の前にはすべてが許される、とでも言うのだろうか。


 吉本隆明は、1981年中野孝次らが発起人となってはじめた文学者の反核声明を、結局アメリカを「戦争挑発の資本主義国」、ソ連を「平和勢力」とすることにしかならない、と反「反核声明」の意思表示した。また、1986年チェルノブイリ原発事故から盛り上がった反原発運動を、「(自分は)原発促進派ではありえないが、反原発には反対」とし、「文明史の到達点」としての「原発を否定する左翼、進歩反動たち」は、「文明史にたいする反動的理念」であり、「反核・反原発・エコロジーなどと一緒くたにして、原始的自然に退行して一点に凝縮させると、とんでもない蒙昧が生み出される。」と語っている。(Wikipedia)


 現代科学は自然を支配し、利用し、克服すべきもの、すなわち、自然は人間に対峙するものとして扱ってきた。しかし、東日本大震災と福島第一原発事故以来、私たち人類は自然に対しいかに小さく無力なものか思い知らされてきた。今私たちは、自然は人間と対峙するものとしてではなく、共に生きていく(共生)相手として認識されるようになってきた。
 ヘーゲルのゲルマン民族・狩猟民族風の闘争的な弁証法的歴史観ではなく、農耕民族・アジア風の共生的歴史観こそこれからの人類を支えていく生き方があるのではないか。科学の発達とは、人類が大自然と共生できるような世界を築いていくことである。

 吉本隆明の言論に対する違和感は、彼の科学技術絶対主義、科学至上主義に発するものである。これが彼の中に流れるヘーゲルの絶対精神なのかもしれない。
 彼は東日本大震災からなにを学んだのだろうか。彼の言動には、なにも学んでいない姿が見えるのだが。「知の巨人」「戦後最大の思想家」ともてはやされたその当時の自分に引きこもってしまったように見える。

 2012年3月16日、吉本隆明さんは肺炎をこじらせて永眠されました。享年87歳でした。