清 貧 と エ コ ロ ジ ー


− 現代における清貧の意味を考える −
 (1月20日)

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エコロジーの部屋


地球温暖化防止京都会議
 かつて地球環境問題は危機意識を持った少数の人々の取り上げる問題であったが、昨年12月に京都で行われた「地球温暖化防止京都会議」のように地球大的な広がりをもった政治的問題にまでになってきた。この会議は地球温暖化による人類存亡の危機を地球大的な規模で防ごうというものであるが、各国の事情によりなかなか結論に達しなかった。
 
というのも、温暖化を防止するためには二酸化炭素の排出量を減らさなければならない。そのためには経済成長の速度を落とし、生活レベルを現状維持かまたは落とすことが求められる。アメリカや日本のように産業界からの強い反対に会い、貧困と闘っている低開発国からは先進国のエゴとして非難された。結局、温暖化防止は先進国の主導で、先進国に都合の良いように決められてしまった。

豊かさは真の幸福?
 人類は洋の東西を問わずいつも豊かさを願い、祈り、そして、そのために働いてきた。豊かさは「大地の恵み」であり、「労働の実り」である。そして、それ以上に「神の祝福」である。この恵みと実り、祝福に満たされた豊かな人生こそ幸福と思ってきた。
 しかし、今、この豊かさが見直されてきている。それは先進国の、豊かさの向こうに自然破壊や地球温暖化、過度の消費主義や金銭至上主義、そして、家庭の崩壊、人間性の喪失など、文明病が待ちかまえていたことに気づいたからである。住み良い環境を守るため、子孫に美しい地球を残すために、そして、将来予測される地球温暖化による地球規模の危機を防ぐために、あらためて自分たちの生き方や生活を見直し、無駄な消費を押さえることが必要である、と考えられるようになってきた。

清貧と貧困
 修道者は3の誓願をたてる。清貧、貞潔、従順である。そのうち、現代もっとも問われているのが清貧である。清貧と実際の状態との間に、大きな乖離があるからである。
 清貧と貧困の問題は難しい。貧困にあえぎ苦しむ人々からは、清貧とは贅沢に飽きた人々の贅沢な考えであり、我々には望むべくもない生き方だ、と言われる。たしかに、清貧云々する人には豊かな生活を送っている人が多い。しかし、清貧という言葉を口にすることなく、あえて貧しい生活を選び、送っている人もいる。
 貧困は、貧困からくる疾病、文盲、飢餓などをもたらし、独裁や内戦などを引き起こし、人類の大きな痛みとなり、現代世界の深刻な課題となっている。ともあれ、貧困は植民地主義にさかのぼる先進国(日本を含めて)がばらまいた病根でもある。

貧困を解決するために内需拡大?
 今や世界各国は全世界的な経済機構に組み込まれ、昨年末からアジア諸国を襲った金融・経済破綻に見られるように、一国の問題は連鎖的に他国までも飲み込んでしまう。たとえば、考えられないことであるが、もし、先進国の大多数の人々が消費を控えて清貧を生きるとするなら、内需の冷え込みをもたらし、輸入が減り、自国の資源の輸出に頼っている後進国の経済まで圧迫してしまう。
 日本がアジア経済を救い後進国の経済を発展させるために、内需の拡大をアメリカやアジア各国、そして、ヨーロッパ諸国からも求められているが、本当にそれは解決へつながるのだろうか。内需の拡大は消費の拡大である。資源の消費と環境破壊を増大することであり、二酸化炭素排出の拡大でもある。今また、「消費は美徳」の時代になってしまう。世界の経済構造が「消費」に依存し、経済成長が至上のものものである限り、この悪循環を克服することはできないだろう。

今までの清貧観
 伝統的な清貧の解釈は、
1.自分の小ささや弱さ(精神的貧しさ)を自覚し、自分が神の助けを必要としているものであることを受け入れる。
2.物や金銭の奴隷とならず、それらから解放され(離脱し)、自由になる。
 つまり、清貧は自分の修徳・完徳への手段としてとらえられてきた。「自分と神」という狭い世界から見た清貧観であり、「自分の救い」、「自分の聖徳」という、自己中心・自己完結的な発想である。

 第二バチカン公会議以降、南米に始まった解放の神学は清貧を「解放」ととらえ、「貧しく、虐げられている人々への連帯」こそ清貧の精神であると言われるようになった。「連帯」は福音の別名となり、南米や中南米各国、アジアやアフリカの国々に大きな影響を与え、独裁や貧困からの解放運動の精神的支柱となった。
 そのほか、現代文明社会の行きづまりから自然に帰る運動も盛んになり、自然を守り、環境を保護するために貧しさを生きている人も多くいる。

  エコロジーの思想
 清貧を生きるとは自己満足・自己完結的なものではなく、世界を見据えた発想が求められる。その中で大きな潮流となりそうなのは、近年、とくに脚光を浴びてきた「エコロジー」の思想である。
 エコロジーとは、「すべての要素は相互依存関係にあり、個々の要素をそれだけを切り離しては論じられない」という基本的前提の下に、「地球を一つの生態系とみて、地球上のいかなる物質も生物も相互影響関係にある」(今村仁司編 「現代思想を読む辞典」 講談社)と考える。
 平たく言えば、地球上のすべてのものはお互いに影響しあい、依存しあって存在している。だから、「私」だけとか、「日本人」だけ、「人間」だけでは生きていけないのだ、ということである。  今まで私たちはあまりにも自分中心の狭い世界の中で、ものを見、考え、祈ってきた。宇宙万物は「人間のために」神から与えられたもので、宇宙万物の完成(神の創造の完成)は、「人間」の、そして、「私の完成」の前には色あせてしまっていた。神が私たちに与えてくださったこの地球をすっかり忘れていたのである。
 いま、「神と地球上のすべてと私」という観点からその相互影響関係を探り、自分のあり方や生き方を求めていくことが必要ではないだろうか。

エコロジーの対象
 先の著書の中で、エコロジー思想の取り上げている分野として次のようなものを挙げている。
 「公害問題、原発問題、安全食品運動、有機・無農薬農業、自然保護、核兵器反対運動、反戦・平和」
 さらに私は、人種差別や障害者差別、女性差別や部落差別などの人権問題、登校拒否やいじめ問題、高齢化問題なども付け加えたいが、これらを見ると社会問題すべてが含まれ、すでにさまざまな運動がなされてきている。しかし、エコロジーの観点は、「地球上のあらゆるものと相互依存関係にある」という発想から始まるのである。言葉を換えて言うならば、「のために(to be for)」から「とともに(to be with)」への転換である。

共に生きるための清貧
   これからの清貧を考える上でエコロジーは非常に重要な示唆を与えてくれる。それは、「私のための清貧」ではなく、「地球上のすべてのものと、共に生きる清貧」、つまり、「被造物の完成に向かう清貧」という考え方である。

 これからの清貧は、伝統的な清貧観を次のように言い換えることができるのではないだろうか。

1.自分が地球上のすべてのものと相互依存関係にあり、私だけでは生きていけない小ささや弱さ(精神的貧しさ)を自覚し、自分が神と地球上のすべてのものの助けを必要としているものであることを認め、受け入れる。

2.人間を抑圧し、生態系を破壊してしまう物や金銭の奴隷とならず、それらから解放され(離脱し)、自由になってすべてのものと共に生きていく。

 宗教はきわめて行動的で実践的な世界で、机上論は何の意味も持たない。清貧もしかり。
 「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ 10.37)